からっぽの心で人間の戒めに従う虚しさ This Little Light 009

Revised Common Lectionary Daily Readings
Saturday, February 07, 2026
Psalm 112:1-9; Isaiah 29:13-16; Mark 7:1-8
 
The Book of Isaiah, chapter 29 
13 The Lord said:
Because these people draw near with their mouths
    and honor me with their lips,
    while their hearts are far from me
and their worship of me is a human commandment learned by rote,
14 so I will again do
    amazing things with this people,
    shocking and amazing.
The wisdom of their wise shall perish,
    and the discernment of the discerning shall be hidden.

イザヤ書 29章
13: 主は言われた。/「この民は口で近づき/唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている。/彼らは私を畏れるが/人間の戒めを教えられているにすぎない。
14: それゆえ、私は再びこの民を/驚くべき業によって驚かす。/この民の知恵ある者の知恵は滅び/悟りある者の悟りは隠される。」
15: 災いあれ、謀を主に深く隠す者に。/彼らの所業は闇の中にある。/彼らは言う。/「誰が我らのことを見ているか。/誰が我らのことを知っているか。」
16: あなたがたの考えは逆様だ。/陶工が粘土と同じに見なされるだろうか。/造られた者が、それを造った者に言えるだろうか/「彼が私を造ったのではない」と。/陶器が陶工に言えるだろうか/「彼には分別がない」と。
 
Gospel According to Mark, chapter 7 
6 He said to them, “Isaiah prophesied rightly about you hypocrites, as it is written,
‘This people honors me with their lips,
    but their hearts are far from me;
7 in vain do they worship me,
    teaching human precepts as doctrines.’
8 “You abandon the commandment of God and hold to human tradition.”
 
マルコによる福音書 7章 
1: ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2:  そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3: ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを守り、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4: また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅の器や寝台を洗うことなど、守るべきこととして受け継いでいることがたくさんあった。――5: そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6: イエスは言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。/『この民は唇で私を敬うが/その心は私から遠く離れている。7: 空しく私を崇め/人間の戒めを教えとして教えている。』
8: あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 
ここで気をつけなければいけないのは、この部分は衛生的な問題に焦点を当てているのではないということだと思う。イエスが手を洗わなくていいと言っているから、汚れていても洗わなくていいというふうに結論づけるのはあまりにも短絡的で本来の会話の意味を捉えていないことになるだろう。冗談で使うのはまだいいと思うけれど。あまりにも細かいルールを定めて、それを守ることが目的となり本来の意味を見失っているのではないか、という指摘が、この箇所でのイエスとイザヤの主旨であろう。
ここ数日の日毎の聖書箇所が、ルールと関係しているものが続いているような気がする。人はよく「形式よりも中身を」と言うし、実際、中身のない形式主義は意味がない。まさにからっぽである。心を込めて伝えられる言葉や、本当に心のこもった態度というのはなんとなく感じるものだと思う。上っ面だけの祈り、それもいつも同じフレーズの長々とした祈りを聞くと心が痛むときがある。一方で、同じフレーズの祈りであっても、祈祷書を用いた形式の祈りであっても、心を込めておこなっておられると感じられる時もある。不思議だ。