公正を行い、慈しみを愛し、謙虚に歩む This Little Light 003
Revised Common Lectionary Daily Readings
Sunday, February 1, 2026:
Fourth Sunday after the Epiphany
Micah 6:1-8 Psalm 15 1 Corinthians 1:18-31 Matthew 5:1-12
Micha 6:8 NRSV
He(God) has told you, O mortal, what is good, and what does the LORD require of you but to do justice and to love kindness and to walk humbly with your God?
ミカ書 聖書協会共同訳
6: 何をもって主にまみえ いと高き神にぬかずくべきか。 焼き尽くすいけにえか、一歳の子牛か。7: 果たして、主は幾千の雄羊 幾万のしたたる油を喜ばれるだろうか。 私は自らの背きの罪のために長子を 自らの罪のために 胎から生まれた子を献げるべきか。8: 人よ、何が善であるのか。 そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。
神が求めているのは焼き尽くすいけにえや、幾万のしたたる油ではない。何が善であるのか、何を神が私たちに求めているのか。それは公正、慈しみ、謙虚さ。この聖句を読んで思い出すのはアメリカのキリスト教の歴史を教えてくださった、その頃の校長先生の宗教についての説明だ。アメリカにおいて、宗教が宗教たりうるのはそこに誠実さがあるかどうかであるというふうに話していたと思う。つまり、毎週決まった時間に礼拝をささげることや教会が行うすべての形式的なことは、ただの形式的な儀式の繰り返しではないのだということ。そのことが誠実に、心を込めて行われているかどうかということが問われている。信仰というのは、faithful な態度に関わることだということ。雨が降っても雪が降っても、嵐が来てもはってでも礼拝に行くことが誠実さではないので、アメリカの教会は悪天候で危険が及びそうな場合は礼拝を中止したりすることもある。日本の教会は、しかし、まるで礼拝することそのものがイコール大事なことのようになってしまっている気がする。礼拝は大切だが、その礼拝を通してどれだけ自分が誠実に神と向き合えているかが求められていることのはず。
公正は英語では justice で、正義と訳してもいい単語。正義という言葉が日本語を使う社会ではあまりにも歪められてしまっている。少なくともキリスト教が、聖書が伝える正義は、社会の弱い立場にある人々がその権利を回復するという意味合いなのに、キリスト教関係者であっても日本にいる人々は、「自分の主張の正しさを押し付けること」 イコール正義かのように正義という単語を用いてしまう。とても残念だと思う。私たちは、同じ言葉を話していても違う意味を念頭に置いている会話をしているのかもしれない。
儀式や形式は、公正(正義)、慈しみ、謙虚さを実践していくための手段だと思う。儀式や形式も、事柄を継続していくためのパターンとして大切だと思っている。