対話・尊厳・連帯はNGワード

最近、心底、この3つの言葉が使われる場面に嫌気が差している。嫌気というよりも、もはや恐怖を感じる今日このごろなのである。対話を積み重ねていこうとか、人間の尊厳を大切にしたいとか、横のつながり/連帯して一緒に頑張りましょうとか、もう勘弁してくださいという感じ。なぜなんだろうか、昔はわたしも自然に言ってたと思うのですが、なぜこんなにも気味が悪く恐怖を感じるようなフレーズに聞こえるようになってしまったのか。

まずは「対話」。向かい合って正直に誠実に話をすること、だという意味だと思います。相手の話を聞き、自分の思いを伝える。物理的な暴力ではなく言葉のコミュニケーションでもって、問題を解決していこうという姿勢ですよね。対話の対という言葉って、ただ「対(つい)」という意味だけではなく「対等」という意味もあります。つまり、対等な関係性があってこその話し合いであり、そこに対等な関係性がない場合には、よほど注意をして安全、安全に話すことができるスペースづくりをしなければならないはずです。

実際のところ相手が親友でもない限り、対等な関係性ってこの社会に存在し得ないんですよね。2人いたら、もうそこには力関係がある。年齢、性別、障害、病気、ジェンダー、国籍、出身、宗教、経済格差、学閥、腕力、社会的地位、コミュニティ所属期間など、あらゆる違いに力の偏りがあるわけです。それらをまるでなかったことのようにして、まず話をしなくては!みたいな、対話を求める姿勢ってものすごい強い態度なんですよね。それに気づいていない強者が多すぎる気がする。出会ってすぐに、それまでなんの関係性もないのに、ラポール形成できていないのに、対話!対話!と主張することは、相手がグローブを構えていないのにいきなりボールを投げて、受け取ってもらってもいないのに何度も何度も投げ続けるようなものだと思う。そう、だから恐ろしいんだな。

それから、日本語だと対話とか話し合いという単語から具体的な意味合いが見えてこないような気がするんだよね。dialogue と conversation と disscussion と chat が全部グチャグチャになっているような感じだし、公私混同というか、職務上の目標を達成するために行っている対話のはずが、いつのまにか、自己主張の場になってしまったり。 未だに、酒と煙草の席でいつのまにか情報交換と会議の方向性を決めるような話がされていたり。一般企業だと昭和の時代のタバコ部屋おじさん、という言い方もあるみたいですね…こういうのは、キリスト教業界も日本社会と同じだと思います。

タバコ部屋会議、密告、学閥…女性や若者が呆れ返る「昭和おじさんたちのあり得ない社内政治」の実態とは https://president.jp/articles/-/40823

次に「尊厳」。人間の尊厳が大切なのは当たり前。しかし、日本社会で尊厳、尊厳という場面では、なんとなくですが「マイノリティも大変かもしれないけれどマジョリティも含めて人間の全ての尊厳が大事」みたいなふうに言われているような気がしてならないんですよね。まさに、All Lives Matter の典型みたいな考えが日本語でいう人間の尊厳というフレーズの後ろに隠れているような気がしてならない。なので、とても胡散臭く感じてしまう。今まで読んだり聞いたりしてきた文章なり話の中でこのフレーズを使っていた人がいわゆるシスジェンダー男性が多かったからというのが、私がこういう印象を受けたことに影響しているのかもしれない。

英語の integrity には、いわゆるその人がかけがえなく大事という意味だけじゃなくて高潔さとか品位とかいう意味もあるけど、日本語の尊厳にはそういうニュアンスがないような気がする。

最後に「連帯」。正直、もうすごく嫌。特にキリスト教関係者で連帯という言葉を使う人からは、1万km位距離を起きたいと思ってしまう。仕事上やむを得ず私も用いたりしますけれども。日本社会で連帯って、個人と個人がその人の能力や考えを認めあって、力を出しあって、一緒に目標に向かおうという感じではなく、あるコネクションに入っている人たちの中に入ってそのコネクションの村ルールみたいなものを守りながら、仲良しこよしでやっていきましょうみたいな意味になってません?もう怖くて仕方ないんです。国際的な人権に関するルールや基準を学んだり大事にするわけでもなく、ハラスメント行為への厳しい対応をするわけでもなく、とにかく仲間を守る連帯。仲間が傷ついた時には声をあげ、仲間を傷つけたターゲットを執拗に攻撃し続ける。

キリスト教業界の連帯のおぞましさが公の場に現れた出来事が、まさにこのニュースだったと思う。

なぜ被害者に謝罪しないのか―「聖職者」の性暴力事件で浮かび上がるキリスト教会の問題 https://news.yahoo.co.jp/articles/8ddefed8526f844af5f5fe79df692e65c624c27f

この連帯のなかに入れれば安全、入れない、入っていない場合には連帯仲間から何をされるかわからない。連帯者たちは、被害者が声をあげても被害の事実すら認めないで無意味な相対化をする。「それはあなたが言っていることでしょう」、「被害を訴えた人はそのように受け止めた」などと。そう言っている、とかそう受け止めた、とかまるで中立かのような雰囲気を装って、一人の人が勇気を出してあげた声を貶める場面を何度経験してきたことか。

このニュースの被害者も、キリスト教業界からそういう態度で扱われたのだ。本当に本当に酷い話だ。

聖路加牧師の性暴力「加害側支持する声明で二次被害」 女性が提訴 https://www.asahi.com/articles/ASR9P66NSR8TUTIL036.html

被害を訴えている人や支援者に対して印象操作を行い、被害事実を歪曲して認識し、被害者をまるで嘘つきや困った人のように扱い、連帯仲間の間で、あの人ヤバい人だよみたいな人物像を作り上げ、噂をし水面下で情報交換を行い、いつの間にか被害者が「真の」加害者だったのように仕立て上げる。こういうのは連帯でもなんでもなく、陰謀論者たちの悪しきソーシャル・ネットワーキングでしかない。仲間の痛みにはものすごく寄り添うけど自分たちに「連帯」しない相手はとことん叩くし、絶対に認めない。これって、連帯ですか?

英語でいう solidarity とか collective とか collaboration とは程遠いですよね…。

というわけで、日本語のこの3つが用いられている状況は、いわゆる英語でいうそれとはぜんぜん違うものだと思います、残念ながら。日本社会で用いられている対話・尊厳・連帯は、私にとっては、現時点では No Good ワードとなっております!


コメント

  1. テゼ・コミュニティでは「連帯」という言葉がフツーに使われたりしてるけど、それほどの違和感を私は抱いたことはないので、日本基督教団界隈?の「違和感」だったりするのでしょうか...。もしくは日本語として使われている現状との「距離感」でしょうかね。
    とても分かりやすいブログの説明、ありがとうございますm(__)m
    「コミュニティ」ではなく、フランス語の「コミュニオン」になると違和感が減ったり、テゼだと、あったりします...自分の場合ですが...。
    対話も「ダイアローグ」だと「オープン・ダイアローグ」などは、相手の話者を受容するイメージですが、そこで意識されるのは話者の立場による力関係をフラットにするのが大前提なので、日本の精神医療現場の「対話」が、如何に力学を含んでしまっているか...の証左ではないかと感じます。
    「尊厳」という日本語の背後にある、ヘンテコな平等感覚みたいのは、目から鱗の指摘でした。自分も意識せずに、そうしているkもしれない...態度変容を迫られる指摘でした。感謝です!

    返信削除
    返信
    1. そろいゆるり様
      いつもコメントありがとうございます。私も海外の団体が連帯という言葉を日本語以外で用いている時にはあまり違和感がないのです。不思議ですね。オープン・ダイアローグの試み、関心があります。ヘンテコな平等感覚という表現、とてもいいですね。こちらこそ、いつもこんなふうに対話してくださって、感謝しております。

      削除

コメントを投稿