日本でキリスト教に浸って

わたしは、最近よく見るようになった「宗教2世」だといえる。自分ではあまりそのアイデンティティを感じてはいないけれども、片方の親が教会へ行くようになり家族親戚で初めて洗礼を受けた。物心がついた頃には毎週日曜日、親に教会へ連れて行かれるのが当たり前となっていた。わたし自身は12歳で洗礼を受けた。

洗礼の準備で、主の祈りは暗記した。確か使徒信条を勉強したときのことだと思うのだけれど、三位一体の神がよくわからなくて、何かしらの質問をした。そうしたら、牧師かその時の教会学校の先生だった信徒さんから神妙なニュアンスで「疑わずに信じることが大事」と言われた。そう言われたことだけはよく覚えている。疑ってしまった自分を恥じた。

その後、自分のセクシュアリティの気づきや他にも様々なことがあって教会へ行くことができなくなった。日本基督教団の教会につながったのは、20代なかばだった。それまで聞いていた説教と違う内容の説教、それまでの教会に集まっていた人々とはまた異なる社会的立場の人々との出会い、大きな組織。だんだん慣れて行って、20代後半には日本基督教団の牧師となるための教師試験(二段階になっており、最初が補教師試験、次が正教師試験という)を受けすんなり合格した。

合格したものの任地があるわけでもなく、模索する中で紹介してもらえたのがアメリカの神学大学院への留学だった。しかし、このあたりから教団の抱える闇の部分が見えてきた。恐ろしい経験をし、この頃、一時は教会にいけなくなるどころかキリスト教の信仰自体を捨てようかというほど悩んだ。キリスト者ではない友人たちが熱心に説得してくれて、なんとか留学できたことは奇跡だったと思う。

その後、日本に帰国する際に任地を求めたがなかなか見つからず、アメリカに残れればどれほどいいことかと泣いたけれども、留学前の恐ろしい経験や自分の英語力ではアメリカの教会で牧会するのは無理があるだろうという事情などで帰国。しかしまた奇跡的に岩手の教会から主任として迎えていただくことができた。

さらに色々あっていま大阪にいるのだが、

日本基督教団に移ってきたころにはそれほど見えなかったものが留学してアメリカでの神学教育を受けてから見えるようになり、おかしなことにたくさん出合ってきた。

この団体は、2021年度の教会数1660、信者人数158678人で、牧師数は3225人(うち現任が1918人)と、キリスト教プロテスタントとしては日本最大の団体だけれども、規模としては中都市程度。牧師に限って言うと、わたしの感覚だけれども、かなり2世、3世が多い。信徒でも教団や教区の委員会などに入っている人々は、牧師や教会の役員の子どもたちが多いように思う。そして、牧師たちの出身校の3大派閥が関西の2つの大学、東京の1つの大学。他小さな専門学校的な神学校が東京に2つ。

かつては教会派と社会派といわれるグループの分断があったようだが、今も何らかの形で続いているようだ。そして、この団体はプロテスタント各教派(改革派、組合派、メソジスト派、バプテスト派、ホーリネスなど)が協力、合意してひとつになったわけではなく日本政府が1940年に施行した宗教団体法によっていわば無理やりひとつにさせられた団体であるため、今もそれぞれの教派の背景を持つ教会が教団内部にグループを形成している。このグループは、先ほどの大学の派閥とも重なる。

たった16万人弱しかいない団体で、実は少なくとも教派としては5つのグループがあり、学校別でも5つの学校の同窓会に分かれている。どこかのグループに所属している牧師や仲良しの牧師たちの間では、さまざまな情報がほぼ筒抜けであり、守秘義務があまり重視されていない印象。どこのグループにも属していない私などは、どこで何を言われているのかわからない、あるいは、どこからも相手にされていないんだろう、と感じている。

経済格差はものすごく大きい。教団年鑑というものに、全国の教会の牧師謝儀の金額が載っていて生々しいのだが、年収200万程度の牧師もいれば年収1000万の牧師もいる。データはないのだが、主任牧師として年収300万円以上となる教会に赴任しているのはほとんどが異性愛者男性だと思われる。実際、未だに、女性牧師は遠慮したい、できれば異性愛者男性で結婚相手(牧師夫人候補)がいて、今後子ども(信徒候補)が生まれるような…ということを望む教会もあるらしい。

以前にもこのブログで問題を指摘したことがあるが、基本的に、牧師の人事は各学校と同窓会だけが担当していて、どこのグループにも属さない者が各学校にまたがって人事相談することはタブーとされている。どんなに可能性が低くても、一つの場所にしか人事の相談をしてはならない。しかし、もともとその学校出身ではないものがどこかのグループに所属させてもらい人事をお願いしたとしても、回ってくるのは一番最後かあるいは数年経っても希望する任地が回ってこないのが現状である。

こういう状況をかかえる日本基督教団という団体において、わたしが経験した範囲では、社会の一般常識があまり通用しない。神様の前で人はみな平等ということでなのか、組織や仕事における上下関係を嫌う牧師も多い。締め切りを守らないのがごく当たり前であるとか、敬語で挨拶ができないとか、嫌いな相手には挨拶しないとか、会議や打ち合わせを午後9時や酷いときには午後11時ころまでおこなうとか、休みの日を作らないとか。ワーク・ライフ・バランスという概念を持たない牧師も多い。

アメリカでは、牧師のワーク・ライフ・バランスを考えるのも当然だったし、締め切りや会議の時間などは当然守るし(コロナ前だったとはいえそもそも夜9時までなどの会議などなかった)、組織のあり方、ハラスメント防止、リーダーシップの取り方などの学びもあった。神様の前で当然人はみな平等だけれども、人間は2人以上集まった場合に必ず力関係が生じるのだから、どういう人間がその社会において力を持つのかを常に意識すべきであると何度も言われた。

組織やルールを嫌うと、力関係に鈍感になってしまう。

自由というのは、ルールがないということではないだろう。好きなものを食べる、好きな歌を歌える、好きなスポーツができる、好きなことを勉強できる、自分のしたいことができる自由は個人の人生において重要だ。しかし、食べるものを作る料理にも、歌にも、スポーツにも、どんな場合にも方法やルールがある。分量どおりに作らなくても食べれる場合はあるけれど、目的の料理は完成しないだろうし、スポーツなんて、この線を越えたらアウトがなくなったらメチャクチャである。

人が2人以上集まって何かを行う組織も、ある程度合意したルールに則って進まなければ、その中で声が大きい者、相対的に力の強い者がなんでもできてしまう混乱に陥るはずだ。そういう組織には、本当に真面目で誠実な人は近づかないだろう。

日本基督教団は、信徒数が減り続けている。

2019年度 163753人

2020年度 161103人(前年度から2650人減)

2021年度 158678人(前年度から2425人減、前々年度から5075人減)

実は上の数字は日常的に教会に来ていない人も合わせての人数で、実際継続してアクティブに教会に来ているのは以下の人数(現住陪餐会員)だ。

2019年度 77379人

2020年度 75087人(前年度から2292人減)

2021年度 73069人(前年度から2018人減、前々年度から4310人減)

実際は、日本基督教団は小都市程度の規模でしかないし、2年で4000人以上減っている。減少の理由はおそらく亡くなられる信徒さんが多いのではないかと予測する。単純計算して毎年2000人減るとすると、あと36年位で全員いなくなることになる。もちろん、年齢のばらつきがあるので全員いなくなるわけではない。ただ、日本社会よりももっと超高齢化している団体なので、36年も持たずして人数が激減する可能性のほうが高い。今残っているの2世3世たちがほとんどを占める、今よりさらに内集団バイアスの高い団体になっていくだろう。そして、教会の収入だけで生きていける牧師はますます特権階級的な存在になっていくだろう。(今もそうだと思うけど)

日本でキリスト教に浸っていると、「よそ者感」を感じさせられることが多いのは、この内集団、誰と誰が知り合い的なネットワークが狭すぎるせいだと思う。アメリカでは言葉も違う生活習慣、文化もぜんぜん違うのに、教会で「よそ者感」を感じたことはあまりなかった。キリスト教というのは、むしろよそ者、小さい者、どこにも属さない者大歓迎!というのを肌で感じた。

日本でもキリスト教は、愛とか共に生きるとか誰もが招かれているとはいうものの、実際話し始めると自分はどこの学校の出身で誰先生を知っていてどこどこで誰と一緒にこれをして、わたしはこんなに長くここにいて、などという話が多くて、ああ、内輪の人たちなんだなと知らされる。

いつも忘れないでいたいと思うのは、日本で経験するキリスト教が「スタンダード」みたいなものではない、ということ(そもそもスタンダードなんてないんだけど、あえて)。残念なことだけど、日本の教会は、キリスト教という看板がついた日本の村社会的ネットワークでつながっている人間関係にもとづいた集団でなんかやっているといえなくもない。そのことに気づいて変わる人が増えない限り、この団体に未来はないだろうなぁといつも思う。

最近こんなことを思ったり経験したり、しんどいことが多く、最近は不眠と頭痛とめまいと色々続いている。辛さから解放されて痛みを想像しようとする人たちと一緒にまた礼拝できる日が来るといいなぁ。

これまでブログを読まれて陰で色々言われたりすることが何度かあって怖くて書けなくなっていたのだけれど、ブログを読んで、私に直接話せるのに話さずに、私のいないところで噂する方々についてはあまり気にしないようにしたい。そういう方々に影響されて私の書く自由が奪われてきたけど、もう奪われたくない。

大切な友人の言葉 自由とは、てばなすこと。
そういう方々を、てばなそうと思う。





コメント

  1. 一読させて頂きました。
    わたしは、仏教(真言宗豊山派)の檀信徒を棄教して、受洗した身の上なので、根本的な共通項は少ないと思いますが、もっとも大きな違いは、自分が性的マイノリティであると自認し、これを「オープン」にしていらっしゃるReinaさんと、その自覚がありながら、これを「オープン」にすることによる、男性優位社会での特権を破棄することの「恐れ」から、それを実行していない「わたし」という、それだな...と、改めて、強く、実感致しました。
    もっと、自由に、自分が生きられればいいのに...と、つづくづ思います。

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  2. そろいゆるり様
    早速コメントを頂き、ありがとうございます。どんな方でもどんな状況でも自由を感じて生きられる社会だといいですよね。オープンにしないことも大切な選択だと思っています。

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