2015年8月21日金曜日

教会は好きだけど日本全体が窮屈なのはなぜ

最初にはっきりと言っておきます。

私は、今働かせていただいている教会がとっても好きですし、この場所に住ませていただいていること、関わらせてもらっている人たちを尊敬しているし、ホントに好きです。お金では絶対に買えないものが、今いる場所には、ものすごくたくさんある。それらを大切にしている人たちがいる。自分たちの手足を実際に動かして教会を守っている人たちがいる。都会と比べて現金収入がほんとうに少ない中から、一所懸命(文字通り一所懸命です)、献金をささげ自分たちの教会を大切にして、牧師を支えてくれる、素晴らしい教会です。

私は、つい2年前くらいまで、アメリカから帰って働く場所があるんだろうかってものすごく悩んでいたけれど、こんなに素敵なところを神様が準備してくださって本当に感謝しています。

これは、紛れもない事実です。



しかーーし!!なーぜ、こんなに窮屈に感じてしまうんだろう、日本。ほわい?


日本語のせいもあるのだろうか。
あるいは、日本の風習のせいなのだろうか?


言いたいことをストレートに言えない。
言うと、え?聞いてくださってました??って言いたくなるような応答が多かったり、あなた、それを自分より年上の男性にも同じように言うんですか?っていうようなことを言われたり、そもそも、発言のチャンスが与えられなかったり。

いつの間にか、自分の知らないところで自分の意志ではないことを進められていたりする。まるで私が恩を着せられているかのように行われるので、イヤと言えない。なんじゃこりゃ?

相手が何を考えているか意見を求めても、え?それってあなたの意見ですか???ん?何を言っているのかいまいちよくわからないんですけど??っていう感じの話し方をする人が多くてイマイチよくわからない。

なんだか、もやっとしてるんです、モヤっと。


お互いの意見を言い合えて、あースッキリ、楽しいね〜っていう瞬間が少ないんですねぇ〜。あ、特に神学的な事柄に関して、ですよ。

他の一般的な話については、周りの皆さんと楽しく話せることは多いんですけど。


自由がないなぁ〜って感じ。あと、余裕もないなぁ〜って感じ。ブラックジョークが通じないんだろうなぁ〜って感じ。

かろうじて argument できても discussion ができない文化なんだろうなぁ。それは小さい頃からの教育で身についたものなんでしょうけれども。

僕はこう思う、私はこう思う、なるほど、あなたはそう思うのか、そうか、そういう考え方もあるか、へーそれは知らなかった、もっと教えて?ああ、じゃあ、こういうふうにも考えれるかも、、なーるほどね。うん、面白いねぇ!

っていう場面に、、まだあまり遭遇したことがありません。


なんか、ゼロサムゲームみたいなのばっかり。。ウィンウィンがない、っていうか。

ていうか、組織の構成メンバーの男女比がほぼゼロサムに近いし、年齢構成も激しく偏ってるから、クリエイティブな議論は生まれてこないですよね。残念なことです。

ついこの間までいたところの多様性と比べたら雲泥の差。そりゃあ、窮屈に感じちゃいますわな。。変革していこうという雰囲気もあまり感じないし。

まあ、しょうがないか。猫と一緒にのんびり一歩ずつですね。






マイノリティ当事者か、マイノリティ事情に詳しい仲間で、ある程度神学の知識があって楽しく神学の話ができる友達(上下関係じゃない友達)ができますように。祈る!(アメリカにはそういう友達がいるから、いつもそういう意味でホームシックです。)


2015年8月15日土曜日

賢そうな自説?聖書をおとしめる批判??

日本基督教団正教師試験の提出論文のなかの、私の説教に対する「コメント(論評)」の一部の言葉がどうしても頭から離れず、とぐるぐる考えています。私が今まで3年間受けてきた神学教育は何だったのか、泣きながら英語を覚えて書き続けたレポートは何だったのか、神様が助けてくれなかったらここまで来れなかった人生は何だったのか、私の聖書釈義と説教の作り方が「聖書を批判していて、聖書をおとしめている」のだとしたら、もう語ることができないのではないか。

聖書を批判的に読むことを封じ込めたら、いったい何が釈義なんだろうか。

釈義:文章・語句などの意味を解きあかすこと。また、解きあかした内容。解釈。
大辞林 第三版)

意味を解き明かすために、文章の文脈の分析をしたり時代背景を考慮したり、、その文章が歴史的に与えてきた影響を考えること=批判的に文章を読むことは、聖書をおとしめることになるの??

この「解き明かした内容」は文章・語句などの意味と向かい合った人によって少しずつ異なるものではないだろうか?全員が全員、ほとんど同じで金太郎飴みたいな釈義、そこから生み出される説教っていうのがあるものなんだろうか?

どんな牧師にも、その人の言葉でなければ語ることができない説教がある。どんな牧師も平均的に同じような説教ができるなんてことは、あり得ない。それじゃあ、人間の仕事じゃない、機械の仕事になってしまう。

どこの教会に行っても語られる福音は同じかもしれない、でも、説教には色があり、呼吸があり、表現があり、生き様がある。

説教は、ただ、ヘブライ語やギリシャ語の意味を確認したり、日本のキリスト教業界の主流派に近い思想を持った人たちの本だけを参考にしたりして、お隣りの牧師たちと同じように作ればいいものではないでしょう?

私には私だけの生きてきた人生があって、その経験、喜び、悲しみ、痛み、嘆き、そして感謝から産まれてくる言葉がある。それらの言葉の背後には、いつも神様がいて、聖書がその神様の存在を言語化してくれる。聖書と一緒に生きてきた軌跡がなければ、牧師の説教の言葉たちは生み出されてこない。と私は思っている。

それを、「賢そうな自説」なんて言葉で表現されて、私はほんとに、けっこう深く傷ついているんだ、今、と思う。こんな言葉を述べた人たちは、私の経験してきたことのいったい何を知っているのだろう?


私に、日本の教会で働くための謙遜さが足りないのか。

私は、でたらめに自分の考えを説教の中で広めたいなんて一ミリも考えたことがない。説教の最後はいつもセレブレーション(祝典)・喜びであり、イエス・キリストの愛、希望、勇気が伝えられるものだと思っている。

説教の作成の過程は、聖書の伝える概念を時代と文化の限界の中にある私たち自身が理解しやすいように、翻訳し直すプロセスでもあると思う。

私の翻訳が、彼らにとっては「賢そうな自説」に見えたわけだ。


コメントを受け取って以来、どうしたら、謙遜に語れるのかを試行錯誤している。

でも、やはり、自分の言葉ではない言葉で語ることはできない。「聖書のヘブライ語やギリシャ語の解説」「注解書の切り貼り」「誰か(偉い・有名な)神学者の思想の紹介」「年の功による経験のひけらかし」は、私は説教じゃないと思っている。

自分を奪われるような言葉を以って説教をすることは、少なくとも私にとっては苦痛でしかない。

みんな、試験に受かるためにそうしてるんだから、という応援してくださっている皆さんからの励まし、嬉しくもありしんどくもあった。最終的にはそうしなければいけないのは理解しているけれど、同調圧力でもあると感じてしまう。とにかく目的が大事だから手段を選ぶなっていうのは、ちょっと乱暴じゃないのかなぁ…。


あなただけが不合格になっているわけじゃないよ、という過度の一般化に基づいた励ましに対しても、なんだかなぁ、と悩む。これまた、他の人たちもそうなんだから、という同質性の強調。

もちろん他の人も厳しいコメントや不合格通知をもらっているのだろう。でも、本当に、多くの人たちが(例えば受験生で不合格通知をもらった人たちの6〜7割とかが)「聖書をおとしめている、賢そうな自説を言っている」などというコメントをもらっているのだろうか?もらっているのだとしたら、私だけじゃないという励ましも納得がいく。けれど実際は何が起きているのか受験者同士の繋がりもないし、私には日本の神学校の同窓会繋がりもないし、わからないですよ。

私、個々人のバックグラウンドを無視して、他の人もそうだから、と言われるのがとても苦手。

だってね、きっと受験生の中で唯一私が Master of Divinity を取得している補教師だと思う。日本の神学修士は英語でなんというのか知らないけれど、アメリカの神学修士は3種類あって、牧師になるための修士は3年、座学と実習が半分ずつで神学論文は書かない(書く時間がない)、これが Master of Divinity (M.Div.)。ほかに、Master of Theological Studies (M.T.S.) と Master of Arts in Pastoral Studies (M.A.P.S.)がある。

私も行くまで知らなかった。今まで帰国してから出会った日本の牧師さんたちの中でこの3種類の修士のことを知ってる人はほぼいなかった。一人か二人くらい?かな??知ってたの。

やっぱり、私ってーそれが良い悪いとかではなくー受験生の中では特殊な経歴なんですよ。

私たちの合否を決める50代60代の日本の牧師さんたちと私では、受けた教育と持っている情報が、たぶん、あまりに違いすぎる。他の受験生の方が、私よりはどちらかと言えばその人たちの思想や立場やコネクションに近いでしょう。

こういう状況を一緒くたにしてほしくないんですよね。


少なくとも今は語らせてもらえる場があることに心から感謝をしつつ、教会外の友達からもよく言われてそのたびに悲しくなるんだけど、実際のところ、私は日本には適合しないのかもしれないなぁとも、思う。私が日本にいても迷惑なのかな。そして、日本にいたら「上の人たち」に潰されてしまうのかな、いつか。一般常識は身についているとは思ってますが。


神様が今後の私の人生をどのように計画してくださっているのかは知りようがないから、今は毎週頑張って語らせていただくことに集中しなければならないですね。日本の上の人たちからのお墨付きがなくても、その上の人をこえている存在が私を支えてくださっていることを信じて。

というわけで、エナジードリンク(笑)





2015年8月14日金曜日

実はウイスキー好きなんです


McClelland's SPEYSIDE SINGLE MALT SCOTCH WHISKY
マクレランズ スペイサイドというスコットランドのウイスキーを買ってみました。




お酒を飲み始めたのはいつ頃からかなぁ?20代前半まで、禁酒禁煙が基本の教会に通っていましたので、お酒を飲むことは自分を汚すことと教えられておりました。聖なる生活とお酒を飲まない、たばこを吸わないことはイコールでした。

その教えの影響もありましたけど、個人的にそれほどお酒に酔うことに興味がなかったので、あまり飲んだりしなかったんですよね。飲み会という場所に行くこともありましたが、実は、どうも、体育会系のノリが苦手で。中高ソフトボール部部長なので経歴としてはめっちゃ体育会系なんですけどね。

静かなバーとかで、ゆっくり飲むのが好きです。あと、美味しいお料理(お寿司とかね)に美味しい日本酒を少しとかのほうが、本当に好きです。

ウイスキーは、基本ロックで飲みますが、カフェ・アレキサンダーという名前でウイスキーを入れた珈琲を出している喫茶店があって、それがとってもおいしかったので、濃いコーヒーに小さじ2杯位入れて飲むのも好きです。カクテルのカフェ・アレキサンダーはカカオリキュールを入れるカクテルみたいですが、そのお店ではウイスキーでした。だったはず(笑)まあ、ともかく珈琲+ウイスキーは抜群に目が覚めて頭が働くか、リラックスしてる時はよく眠れます(笑)

私は珈琲で眠れなくなるとかはないんですよね〜。

お酒に関しては、酔っ払って意識を失うとかなったことがないし、なるのはあまりよくないことだと思います。当たり前ですが(笑)自分のためにも周りのためにも、素敵な飲み方をしたいものです、ほんとに。酔って楽しくなってしまって、自分がどのくらい酔っているかも忘れて飲み続けてしまうっていう人は意外と多いものなのでしょうか。

そういう飲み方ってお酒に対しても失礼なんじゃないかなぁとか思ったりして。

アルコール依存症も、怖いですしね。疑いのある人は440万人もいるそうです。
“ 2003年に実施された全国成人に対する実態調査によると、飲酒日に60g(純アルコール量として)以上飲酒していた多量飲酒の人は860万人、アルコール依存症の疑いのある人は440万、治療の必要なアルコール依存症の患者さんは80万人いると推計されています1)。”



それで、今回野口英世さん2枚で買ってみた「マクレランズ スペイサイド」ですが!軽くて飲みやすいですね。香りもあっさりしてしつこくない感じです。半分くらい飲んだら次のを買おうかな(笑)?

瓶を集めて並べるのも好きなので楽しみだな〜!


2015年8月10日月曜日

猫と夏、真っ盛り

7月6日月曜日に、一人暮らしをはじめてから10年にしてはじめて、一緒に住む動物をもらいうけました。保護された仔猫、凛(りん)ちゃん。8月3日月曜日に、凛と一緒に育っていた百合(ゆり)ちゃんも受けとることになりました。

私は動物好きで、犬も猫もどちらも好きなので、すっごく犬派!すっごく猫派!みたいな可愛がり方はしないタイプです。猫たちともそれなりに距離をおきつつ、まぁ楽しく暮らしています。


7月は、いろいろありましてしんどかったです。なんか、お話がきちんとできないとか、言ったことを実行しないとか、自分の状況を理解していない、受け入れられない、とかやっぱり大人でもあるんだなぁと改めて学ばされました。まあ、理由はあるにせよ、少なくとも話はしないと、と思うんですよね。

そして、私は成金的なお金持ち趣味に非常に嫌悪感がある、と確認しました。自分の持ち物をすべてブランド品などで固めてさ、社会的地位があったとしても、人としての性質はそういうモノやお金ではかれるものではない、って心底思った。そういう暮らしってむしろカッコわるいと思う。

こういう、日本のお金を持っている層の人たちの社会との関わり方とか信念の浅はかさって空しいよなぁ。お金を持っている層は、こういう人たちが大半なのかなぁ。

あとは、キリスト教系の私立中学校や高校って、本当はそういうお金に寄らない価値観を教えているはずなのに、都会のお金持ちの子どもたちが集まってるって矛盾だよなぁと思わされました。お金持ちの親はキリスト教の基本も何も知らないのに、月に何万円も払って、子どもたちを塾に通わせて、キリスト教系中高に入れる。意味不明すぎる。

だって、キリスト教って貧しい人、弱くなっている人たちと寄り添うはずなのに、そういう人たちって貧しい状態を経験していないじゃないですか。不思議。


8月は、つい最近、日本基督教団の正教師試験というのの提出論文、6つのうち5つが不合格になっちゃって、その理由もイマイチな感じでしんどかったですね。まぁ「オカミの方々のおっしゃることなんだから理由は正当なのだろう、きっと」とか、「不合格なんだからそれなりに悪い論文だったのだろう」とか、考える人が多いのかもしれませんが、、私の頭には「お上=正しい」という方程式はありません。

神学という学問において唯一正しい答えを書けということ自体が間違いだと思うし、神様以外の何物をも絶対化してはならないはずなのに、聖書の文字を絶対化して聖書という文献への批判をゆるさないだなんて、変なの。

聖書は、委員会の皆さんに守ってもらわなくても、聖書そのものだけで十分神の言葉ですから!人間の批判で潰れるような書物じゃない。って感じ。

本当に聖書が好きなら、聖書を誤用して世界のキリスト教会が犯した罪を見過ごしてはならないのではないかと思います。前後の文脈と歴史と、現代社会の中で聖書を読む。ある部分だけを切り取って読むのは聖書の文字崇拝であって、それは神の言葉として聖書を受け取ってるんじゃないと思う。

日本のキリスト教会は、日本の言霊文化に影響を受けすぎてはいないか?と思ったりもしますね。

日本のキリスト教会の教会の内側にいる人たちだけに通じる常識は伝統でもなんでもなく、ただの偏向思考なだけ。「今までこうしてきたから今もこうしている、今までこういう仕方で信じてきたからそれが普通」みたいな思考回路から抜け出せないのかなぁ、今のちょっと上の世代の人たち=なんとか議員とか、なんとか委員長とか、なんとか委員の人たちって。硬直した思考回路に気づきもせず、自分たち自身が常にトランスフォームされることを求めないようなリーダーたちがこの団体をまわしている間に、日本の教会は、どんどん人々の間で必要とされない存在となっていくでしょうね。

残念なことです。私はそういう状況に、やはり、「迎合」はできません。

ま、イヤなこともあったけれど、一番イヤなことから約一ヶ月たって、だいぶ元気になった。そして、夏休みになって近所の子どもたちが遊びに来てくれるのが、すごーく嬉しいです。今週はバーベキュー!猫が走り回ってるのを見るのも癒やされます。










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