2015年9月25日金曜日

広島を訪れて

なぜ今回広島に行こうと思ったのか自分でもよくわからない。

戦後70年という言葉が飛び交う中で、原爆を落とされた土地を訪れたことがない自分に対して、何か違和感を感じた。それだけ。今回は大阪まで行く用事があったので、広島のほうが近かったから、広島に行ってみたのだけど、長崎にもいつか行ってみたい。

今の広島は、原子爆弾で吹き飛ばされて何もなくなってしまった土地だったとは、想像つかない。けれど、あの原爆ドームは紛れもない歴史の生き証人で、あそこだけ時間が止まっているようだった。

70年前のあの日の爆風を受けて、その後、原爆ドームと呼ばれ始めたあの建物は、どんなふうに広島を見てきたのだろう。日本を見てきただろう。あの建物にもし、人間のような感情や意志があったら、彼あるいは彼女は何を思うのだろう。

癒やされることのない傷。むき出しの傷。あの日のあの瞬間をそのままにさらけ出して、生きてきた建物。

広島と長崎にはあの建物と同じ傷を受けた人々が今も生きていて、その傷を身体的に受け継いだ人々もいて。

ほんとうは日本に生きる私たちは ー国としてまとまっているのであればー 日本人として自分たちの国の一部である広島と長崎が受けた痛みを、自分の傷として受けとめる必要があるだろう。原爆の被害、空襲の被害、とにかく傷を受けた人たちのその傷と、70年間どのようにして向き合ってきたのだろう、私たちは。

私は、戦後70年のうちのちょうど後半の半分を生きてきた世代だ。

戦争というモノを実際には知らない。けれど、女性として、セクシュアルマイノリティとして、離婚した親の家庭に生まれた子どもとして、東北地方出身として、キリスト教保守派グループから日本国内では比較的進歩派とされるグループに移籍した者として、いろんな理由で、いろんな場面で、理不尽な暴力と出会ってきた。

だからこそ、暴力がもっとも大きい単位で現れる戦争というのは「本能的に嫌い」だ。

傷は苦しめる。傷は痛い。傷は絶望を生む。

原爆ドームは、「今もこの傷は痛いよ、苦しいよ、でも生きているよ、だからこれ以上痛い思いや苦しい思いをしたくないよ」と言っているようだった。傷を抱えてもそれでもその場で生きてきた、だからこれからも生きていく、という勇気を与えてくれているようでもあった。


私の心の中にも、原爆ドームのような廃墟のような場所があるのかもしれない。

今年の7月で、アメリカから日本に帰国して1年経った。幸いにも働く場所を与えられて、初めて迎えた終戦記念の8月だった。なんとなく原爆ドームを見に行かなくちゃという気にさせられたのは、私の中のこれまでの傷を原爆ドームという実際の建物を通して改めて見つめたいという欲求からだったのかもしれない。また、「終戦記念」とは無縁に過ごしたアメリカでの3年間の反動から、もっと「終戦」を身近に感じたいという欲求だったのかもしれない。

私は、原爆で亡くなった人や被爆した人たちと自分を比べて、あんなに苦しんだ人もいたのだから自分はもっと頑張らなくちゃいけない、とか、あの時代の人は可哀想だったとか、そういう気持ちにはならない。ただ、70年前の現実をまっすぐに受けとめる必要があると感じる。原爆での攻撃というのは「悪」でしかない、と強く思う。そして、究極的に「戦争」という道を人間が選ぶというのは「悪行を選ぶこと」であると思う。

破壊されたものは二度と、もとには戻らない。戻れない。

戦争や原爆は、新たな次元のための脱構築ではなくて、人に絶望をもたらす破壊でしかない。


私は、今回広島を訪れて、原爆ドームの悲痛の声を聞いた。










2015年8月21日金曜日

教会は好きだけど日本全体が窮屈なのはなぜ

最初にはっきりと言っておきます。

私は、今働かせていただいている教会がとっても好きですし、この場所に住ませていただいていること、関わらせてもらっている人たちを尊敬しているし、ホントに好きです。お金では絶対に買えないものが、今いる場所には、ものすごくたくさんある。それらを大切にしている人たちがいる。自分たちの手足を実際に動かして教会を守っている人たちがいる。都会と比べて現金収入がほんとうに少ない中から、一所懸命(文字通り一所懸命です)、献金をささげ自分たちの教会を大切にして、牧師を支えてくれる、素晴らしい教会です。

私は、つい2年前くらいまで、アメリカから帰って働く場所があるんだろうかってものすごく悩んでいたけれど、こんなに素敵なところを神様が準備してくださって本当に感謝しています。

これは、紛れもない事実です。



しかーーし!!なーぜ、こんなに窮屈に感じてしまうんだろう、日本。ほわい?


日本語のせいもあるのだろうか。
あるいは、日本の風習のせいなのだろうか?


言いたいことをストレートに言えない。
言うと、え?聞いてくださってました??って言いたくなるような応答が多かったり、あなた、それを自分より年上の男性にも同じように言うんですか?っていうようなことを言われたり、そもそも、発言のチャンスが与えられなかったり。

いつの間にか、自分の知らないところで自分の意志ではないことを進められていたりする。まるで私が恩を着せられているかのように行われるので、イヤと言えない。なんじゃこりゃ?

相手が何を考えているか意見を求めても、え?それってあなたの意見ですか???ん?何を言っているのかいまいちよくわからないんですけど??っていう感じの話し方をする人が多くてイマイチよくわからない。

なんだか、もやっとしてるんです、モヤっと。


お互いの意見を言い合えて、あースッキリ、楽しいね〜っていう瞬間が少ないんですねぇ〜。あ、特に神学的な事柄に関して、ですよ。

他の一般的な話については、周りの皆さんと楽しく話せることは多いんですけど。


自由がないなぁ〜って感じ。あと、余裕もないなぁ〜って感じ。ブラックジョークが通じないんだろうなぁ〜って感じ。

かろうじて argument できても discussion ができない文化なんだろうなぁ。それは小さい頃からの教育で身についたものなんでしょうけれども。

僕はこう思う、私はこう思う、なるほど、あなたはそう思うのか、そうか、そういう考え方もあるか、へーそれは知らなかった、もっと教えて?ああ、じゃあ、こういうふうにも考えれるかも、、なーるほどね。うん、面白いねぇ!

っていう場面に、、まだあまり遭遇したことがありません。


なんか、ゼロサムゲームみたいなのばっかり。。ウィンウィンがない、っていうか。

ていうか、組織の構成メンバーの男女比がほぼゼロサムに近いし、年齢構成も激しく偏ってるから、クリエイティブな議論は生まれてこないですよね。残念なことです。

ついこの間までいたところの多様性と比べたら雲泥の差。そりゃあ、窮屈に感じちゃいますわな。。変革していこうという雰囲気もあまり感じないし。

まあ、しょうがないか。猫と一緒にのんびり一歩ずつですね。






マイノリティ当事者か、マイノリティ事情に詳しい仲間で、ある程度神学の知識があって楽しく神学の話ができる友達(上下関係じゃない友達)ができますように。祈る!(アメリカにはそういう友達がいるから、いつもそういう意味でホームシックです。)


2015年8月15日土曜日

賢そうな自説?聖書をおとしめる批判??

日本基督教団正教師試験の提出論文のなかの、私の説教に対する「コメント(論評)」の一部の言葉がどうしても頭から離れず、とぐるぐる考えています。私が今まで3年間受けてきた神学教育は何だったのか、泣きながら英語を覚えて書き続けたレポートは何だったのか、神様が助けてくれなかったらここまで来れなかった人生は何だったのか、私の聖書釈義と説教の作り方が「聖書を批判していて、聖書をおとしめている」のだとしたら、もう語ることができないのではないか。

聖書を批判的に読むことを封じ込めたら、いったい何が釈義なんだろうか。

釈義:文章・語句などの意味を解きあかすこと。また、解きあかした内容。解釈。
大辞林 第三版)

意味を解き明かすために、文章の文脈の分析をしたり時代背景を考慮したり、、その文章が歴史的に与えてきた影響を考えること=批判的に文章を読むことは、聖書をおとしめることになるの??

この「解き明かした内容」は文章・語句などの意味と向かい合った人によって少しずつ異なるものではないだろうか?全員が全員、ほとんど同じで金太郎飴みたいな釈義、そこから生み出される説教っていうのがあるものなんだろうか?

どんな牧師にも、その人の言葉でなければ語ることができない説教がある。どんな牧師も平均的に同じような説教ができるなんてことは、あり得ない。それじゃあ、人間の仕事じゃない、機械の仕事になってしまう。

どこの教会に行っても語られる福音は同じかもしれない、でも、説教には色があり、呼吸があり、表現があり、生き様がある。

説教は、ただ、ヘブライ語やギリシャ語の意味を確認したり、日本のキリスト教業界の主流派に近い思想を持った人たちの本だけを参考にしたりして、お隣りの牧師たちと同じように作ればいいものではないでしょう?

私には私だけの生きてきた人生があって、その経験、喜び、悲しみ、痛み、嘆き、そして感謝から産まれてくる言葉がある。それらの言葉の背後には、いつも神様がいて、聖書がその神様の存在を言語化してくれる。聖書と一緒に生きてきた軌跡がなければ、牧師の説教の言葉たちは生み出されてこない。と私は思っている。

それを、「賢そうな自説」なんて言葉で表現されて、私はほんとに、けっこう深く傷ついているんだ、今、と思う。こんな言葉を述べた人たちは、私の経験してきたことのいったい何を知っているのだろう?


私に、日本の教会で働くための謙遜さが足りないのか。

私は、でたらめに自分の考えを説教の中で広めたいなんて一ミリも考えたことがない。説教の最後はいつもセレブレーション(祝典)・喜びであり、イエス・キリストの愛、希望、勇気が伝えられるものだと思っている。

説教の作成の過程は、聖書の伝える概念を時代と文化の限界の中にある私たち自身が理解しやすいように、翻訳し直すプロセスでもあると思う。

私の翻訳が、彼らにとっては「賢そうな自説」に見えたわけだ。


コメントを受け取って以来、どうしたら、謙遜に語れるのかを試行錯誤している。

でも、やはり、自分の言葉ではない言葉で語ることはできない。「聖書のヘブライ語やギリシャ語の解説」「注解書の切り貼り」「誰か(偉い・有名な)神学者の思想の紹介」「年の功による経験のひけらかし」は、私は説教じゃないと思っている。

自分を奪われるような言葉を以って説教をすることは、少なくとも私にとっては苦痛でしかない。

みんな、試験に受かるためにそうしてるんだから、という応援してくださっている皆さんからの励まし、嬉しくもありしんどくもあった。最終的にはそうしなければいけないのは理解しているけれど、同調圧力でもあると感じてしまう。とにかく目的が大事だから手段を選ぶなっていうのは、ちょっと乱暴じゃないのかなぁ…。


あなただけが不合格になっているわけじゃないよ、という過度の一般化に基づいた励ましに対しても、なんだかなぁ、と悩む。これまた、他の人たちもそうなんだから、という同質性の強調。

もちろん他の人も厳しいコメントや不合格通知をもらっているのだろう。でも、本当に、多くの人たちが(例えば受験生で不合格通知をもらった人たちの6〜7割とかが)「聖書をおとしめている、賢そうな自説を言っている」などというコメントをもらっているのだろうか?もらっているのだとしたら、私だけじゃないという励ましも納得がいく。けれど実際は何が起きているのか受験者同士の繋がりもないし、私には日本の神学校の同窓会繋がりもないし、わからないですよ。

私、個々人のバックグラウンドを無視して、他の人もそうだから、と言われるのがとても苦手。

だってね、きっと受験生の中で唯一私が Master of Divinity を取得している補教師だと思う。日本の神学修士は英語でなんというのか知らないけれど、アメリカの神学修士は3種類あって、牧師になるための修士は3年、座学と実習が半分ずつで神学論文は書かない(書く時間がない)、これが Master of Divinity (M.Div.)。ほかに、Master of Theological Studies (M.T.S.) と Master of Arts in Pastoral Studies (M.A.P.S.)がある。

私も行くまで知らなかった。今まで帰国してから出会った日本の牧師さんたちの中でこの3種類の修士のことを知ってる人はほぼいなかった。一人か二人くらい?かな??知ってたの。

やっぱり、私ってーそれが良い悪いとかではなくー受験生の中では特殊な経歴なんですよ。

私たちの合否を決める50代60代の日本の牧師さんたちと私では、受けた教育と持っている情報が、たぶん、あまりに違いすぎる。他の受験生の方が、私よりはどちらかと言えばその人たちの思想や立場やコネクションに近いでしょう。

こういう状況を一緒くたにしてほしくないんですよね。


少なくとも今は語らせてもらえる場があることに心から感謝をしつつ、教会外の友達からもよく言われてそのたびに悲しくなるんだけど、実際のところ、私は日本には適合しないのかもしれないなぁとも、思う。私が日本にいても迷惑なのかな。そして、日本にいたら「上の人たち」に潰されてしまうのかな、いつか。一般常識は身についているとは思ってますが。


神様が今後の私の人生をどのように計画してくださっているのかは知りようがないから、今は毎週頑張って語らせていただくことに集中しなければならないですね。日本の上の人たちからのお墨付きがなくても、その上の人をこえている存在が私を支えてくださっていることを信じて。

というわけで、エナジードリンク(笑)





2015年8月14日金曜日

実はウイスキー好きなんです


McClelland's SPEYSIDE SINGLE MALT SCOTCH WHISKY
マクレランズ スペイサイドというスコットランドのウイスキーを買ってみました。




お酒を飲み始めたのはいつ頃からかなぁ?20代前半まで、禁酒禁煙が基本の教会に通っていましたので、お酒を飲むことは自分を汚すことと教えられておりました。聖なる生活とお酒を飲まない、たばこを吸わないことはイコールでした。

その教えの影響もありましたけど、個人的にそれほどお酒に酔うことに興味がなかったので、あまり飲んだりしなかったんですよね。飲み会という場所に行くこともありましたが、実は、どうも、体育会系のノリが苦手で。中高ソフトボール部部長なので経歴としてはめっちゃ体育会系なんですけどね。

静かなバーとかで、ゆっくり飲むのが好きです。あと、美味しいお料理(お寿司とかね)に美味しい日本酒を少しとかのほうが、本当に好きです。

ウイスキーは、基本ロックで飲みますが、カフェ・アレキサンダーという名前でウイスキーを入れた珈琲を出している喫茶店があって、それがとってもおいしかったので、濃いコーヒーに小さじ2杯位入れて飲むのも好きです。カクテルのカフェ・アレキサンダーはカカオリキュールを入れるカクテルみたいですが、そのお店ではウイスキーでした。だったはず(笑)まあ、ともかく珈琲+ウイスキーは抜群に目が覚めて頭が働くか、リラックスしてる時はよく眠れます(笑)

私は珈琲で眠れなくなるとかはないんですよね〜。

お酒に関しては、酔っ払って意識を失うとかなったことがないし、なるのはあまりよくないことだと思います。当たり前ですが(笑)自分のためにも周りのためにも、素敵な飲み方をしたいものです、ほんとに。酔って楽しくなってしまって、自分がどのくらい酔っているかも忘れて飲み続けてしまうっていう人は意外と多いものなのでしょうか。

そういう飲み方ってお酒に対しても失礼なんじゃないかなぁとか思ったりして。

アルコール依存症も、怖いですしね。疑いのある人は440万人もいるそうです。
“ 2003年に実施された全国成人に対する実態調査によると、飲酒日に60g(純アルコール量として)以上飲酒していた多量飲酒の人は860万人、アルコール依存症の疑いのある人は440万、治療の必要なアルコール依存症の患者さんは80万人いると推計されています1)。”



それで、今回野口英世さん2枚で買ってみた「マクレランズ スペイサイド」ですが!軽くて飲みやすいですね。香りもあっさりしてしつこくない感じです。半分くらい飲んだら次のを買おうかな(笑)?

瓶を集めて並べるのも好きなので楽しみだな〜!


2015年8月10日月曜日

猫と夏、真っ盛り

7月6日月曜日に、一人暮らしをはじめてから10年にしてはじめて、一緒に住む動物をもらいうけました。保護された仔猫、凛(りん)ちゃん。8月3日月曜日に、凛と一緒に育っていた百合(ゆり)ちゃんも受けとることになりました。

私は動物好きで、犬も猫もどちらも好きなので、すっごく犬派!すっごく猫派!みたいな可愛がり方はしないタイプです。猫たちともそれなりに距離をおきつつ、まぁ楽しく暮らしています。


7月は、いろいろありましてしんどかったです。なんか、お話がきちんとできないとか、言ったことを実行しないとか、自分の状況を理解していない、受け入れられない、とかやっぱり大人でもあるんだなぁと改めて学ばされました。まあ、理由はあるにせよ、少なくとも話はしないと、と思うんですよね。

そして、私は成金的なお金持ち趣味に非常に嫌悪感がある、と確認しました。自分の持ち物をすべてブランド品などで固めてさ、社会的地位があったとしても、人としての性質はそういうモノやお金ではかれるものではない、って心底思った。そういう暮らしってむしろカッコわるいと思う。

こういう、日本のお金を持っている層の人たちの社会との関わり方とか信念の浅はかさって空しいよなぁ。お金を持っている層は、こういう人たちが大半なのかなぁ。

あとは、キリスト教系の私立中学校や高校って、本当はそういうお金に寄らない価値観を教えているはずなのに、都会のお金持ちの子どもたちが集まってるって矛盾だよなぁと思わされました。お金持ちの親はキリスト教の基本も何も知らないのに、月に何万円も払って、子どもたちを塾に通わせて、キリスト教系中高に入れる。意味不明すぎる。

だって、キリスト教って貧しい人、弱くなっている人たちと寄り添うはずなのに、そういう人たちって貧しい状態を経験していないじゃないですか。不思議。


8月は、つい最近、日本基督教団の正教師試験というのの提出論文、6つのうち5つが不合格になっちゃって、その理由もイマイチな感じでしんどかったですね。まぁ「オカミの方々のおっしゃることなんだから理由は正当なのだろう、きっと」とか、「不合格なんだからそれなりに悪い論文だったのだろう」とか、考える人が多いのかもしれませんが、、私の頭には「お上=正しい」という方程式はありません。

神学という学問において唯一正しい答えを書けということ自体が間違いだと思うし、神様以外の何物をも絶対化してはならないはずなのに、聖書の文字を絶対化して聖書という文献への批判をゆるさないだなんて、変なの。

聖書は、委員会の皆さんに守ってもらわなくても、聖書そのものだけで十分神の言葉ですから!人間の批判で潰れるような書物じゃない。って感じ。

本当に聖書が好きなら、聖書を誤用して世界のキリスト教会が犯した罪を見過ごしてはならないのではないかと思います。前後の文脈と歴史と、現代社会の中で聖書を読む。ある部分だけを切り取って読むのは聖書の文字崇拝であって、それは神の言葉として聖書を受け取ってるんじゃないと思う。

日本のキリスト教会は、日本の言霊文化に影響を受けすぎてはいないか?と思ったりもしますね。

日本のキリスト教会の教会の内側にいる人たちだけに通じる常識は伝統でもなんでもなく、ただの偏向思考なだけ。「今までこうしてきたから今もこうしている、今までこういう仕方で信じてきたからそれが普通」みたいな思考回路から抜け出せないのかなぁ、今のちょっと上の世代の人たち=なんとか議員とか、なんとか委員長とか、なんとか委員の人たちって。硬直した思考回路に気づきもせず、自分たち自身が常にトランスフォームされることを求めないようなリーダーたちがこの団体をまわしている間に、日本の教会は、どんどん人々の間で必要とされない存在となっていくでしょうね。

残念なことです。私はそういう状況に、やはり、「迎合」はできません。

ま、イヤなこともあったけれど、一番イヤなことから約一ヶ月たって、だいぶ元気になった。そして、夏休みになって近所の子どもたちが遊びに来てくれるのが、すごーく嬉しいです。今週はバーベキュー!猫が走り回ってるのを見るのも癒やされます。










2015年6月9日火曜日

闘魚の一郎とジャズナイト

アメリカのお友達が飼っていた闘魚(ベタ)を預かったことがありました。いやあ、美しさに見惚れました。で、働き始めたら絶対に自分の仕事部屋で飼いたいって思ってたのでした。就任式をしていただいたあと、ホーマックから連れてまいりました。水槽などなど一式、ホーマックのお兄さんに教えてもらって選んで。

 

 


けっこう毎日調子がいいと思いますよ。餌を食べるときの動きが俊敏です(笑)朝は、What's up, Ichiro?! Sleep well? ってアメリカっぽく話しかけています(笑)

美しいですね、この赤と青の絶妙な色が。一郎、カッコよすぎる。一郎のヒレの一筋一筋、その色を眺めるたびに、いやあ、神様のデザイン力ってほんとうに素晴らしいって思うんですよねえ。


そして、仕事の時はいつもジャズラジオドットコムっていうインターネットラジオをかけているのですが、その中で特に最近いいなぁと思ったアーティストのCDを買ってみました。Ken Peplowski というスイングジャズ分野で知られる、クラリネット奏者、だそう(ウィキペディア情報)。

この人の演奏、昔行ったジャズバーとかコンサートを思い起こさせられます。こういう音楽を聴くとちょっと都会の夜が懐かしくなったりもしますが、まぁ、そういうのは今後いくらでも経験できるだろうしな。

そういえば、さきほどCNNのニュースでアップル社が Spotify や Pandra みたいなサービスを月がく9.99ドルで始めるって言ってましたね。日本でも配信されるのかな?!日本、ほんとインターネット鎖国すぎるからなぁ。

Lastfm をさっき登録してみました。http://www.lastfm.jp/user/Reinau25/library


昼間の事務仕事やら何やらを終えてシャワー浴びたあとに、ジャズを聴きながらソファで神学書を読むって最高に気持ちがいいな〜。あ〜ここに牧師として呼んでもらって幸せでございます。夜は静かだし、朝は鳥の音で起きるし。野菜はおいしいし。自分で作ったピクルスと、今日のトマトスープはわりとおいしくて、おいしいわ〜って言いながら食べてましたよ、一人で(笑)

今週から祈祷会で『イエス最後の一週間』を読み始めるので、今日はこれを読んでいました。神学校の新約聖書学の教科書でもありました。英語だと、The Last Week What the Gospels Really Teach About Jesus's Final Days in Jerusalem です。当然ですけど、やっぱり日本語のほうが早く読めますね(笑)

日本語の神学書(昔々のすごーい難しいのでなければ)この感じだと週に2冊くらいのペースで読めそうな気がします。英語もまだ読みきってない本がたくさんあるから、週に半分くらいのペースで読むのを目標にしようかな。それで、一週間に2冊半か。その他に、一般書も2冊くらいは読んだほうがいいでしょうね。

今週は子ども向けの哲学絵本というのを2冊は読みましたけど、それはまた別だな(笑)

ブログも、日本語でも英語でもがんばろう。


就任式と提出物が終わって、いよいよ自分のペースを作っていく時期です。


一郎とジャズといっしょに、楽しんでいこうっと。






2015年6月6日土曜日

シンプルお食事ライフ

日本でのひとり暮らしを再開して、早2ヶ月。去年までは仕事上、高校生と一緒に食事をさせてもらっていた(しなければならなかった)ので自炊をしていませんでした。そういえば、一人暮らしをはじめてから今年で10年位になるんだな。

料理は得意とは言えないですけど、基本的に自分で作って食べるのが好きです。

アメリカでは、トレイダージョーズというオーガニックフードのスーパーで毎週買い物をしていました。買うものは毎週だいたい同じ。どうしても具合が悪い時とか、宿題が切羽詰まって時間がない時のための冷凍食品のインドカレーとか酢豚とかはちがう種類のを買ってましたね。ちょっとした楽しみでした。

牛乳、100%のジュース、ギリシャヨーグルト、豆腐、ガルバンゾ豆、トマト缶、サラダ用の野菜、そのまま食べる小さいにんじん、ブロッコリーとカリフラワーが混ざってるの、そのまま食べられる小さいりんご、冷凍のブルーベリー、マンゴー、いちご、チーズ、ベーコン、パン、パスタ、炭酸水、卵、米、しょうが、などなど。たまに、じゃがいも、玉ねぎ、クスクス、グラノーラバー、などなど。

そういえば、サラダそうめんにピーナッツベースのドレッシングをかけて食べるのもよくやってたなぁ、あのドレッシングおいしかったっけ。



日本でも、アメリカでの3年間と、わりと同じようものを食べてます(笑)朝ごはんは、パン、卵、ベーコン、スムージー、野菜。お昼ごはんは毎日、そば/うどん。夜はその日の気分で、米あるいはパスタを主食に。食費もかからないし、調子がいいんですよね。お肉は自宅ではあまり食べず外食する時に食べるので、お肉はありがたいものというイメージがあります(笑)

和食が苦手とかではないんですよ。ただ単に、和食を作るという習慣を身につけなかっただけですね。和食は大好きです。焼き魚も、煮物も、漬物も、味噌汁も何でも好き。まあ、そのなかでも地元の刺し身とご飯は特に好き(刺し身は料理じゃないじゃん、ていう。笑)

まあ、そんなシンプルお食事ライフをずっとしている私なのですが、昨日はどうしても疲れてしまって、ものすごく久しぶりに、きっと3,4年ぶり、コンビニのお弁当を買って食べたのですね。いや、、なんていうか、具合がわるくなってしまいました。スーパーのお惣菜、お弁当はスーパーや地元で作っておられるから食べれるんですけど、昨日のは、ちょっと何かが無理でした。保存料とかかなあ?

好きな方々には失礼かもしれないのですが、ちょっとコンビニの弁当、コレを継続して食べていたら、体がおかしくなりそうと思いました。味もなんか不思議だった。しょっぱいし。今朝起きたら部分的に肌荒れがひどくなってました。

やっぱり自然に近い食事って大事だよねぇとか思っていたら、今日のインフォグラフィックスのメールマガジン(
http://www.dailyinfographic.com/wp-content/uploads/2015/06/unnamed-8.jpg)ファストフード店が今後減っていくであろうというものでした。そうだろうな〜。




2015年6月3日水曜日

帰国してからもうすぐ1年

去年の今頃は、ああ、いよいよ本当に日本に帰るんだなあって気分だった。たくさんのお友達の家に泊めてもらいながら最後のアメリカを楽しんでいた。アメリカっぽい食べ物を食べまくってたなぁ。懐かしくてさみしくなる。

今年、4月から東北地方の田舎の小さな教会で働かせてもらえることになった。

集落全体の絶対数が少なすぎるし、キリスト教という外来宗教のベースが日常生活に、ない。こういう場所でどうやって働いていくのか、どこに働く意味があるのか、日々考えながら自分のペースを模索中。

それにしても、立派なお家に住ませてもらってるし、夢だった天井までの本棚だって仕事部屋にあるし、牧師になった暁には仕事部屋でぜひ「ベタ」(闘魚)を飼いたい!と思ってたのも叶ったし、素晴らしく恵まれた環境でのお仕事です。

4・5月はやることが次々あり、人との出会いもたくさんあり、バタバタしてしまったけれど、今月6月からは個人的な生活も教会外での仕事の可能性も探していこうと思う。

オープンにしてるセクマイ当事者としてもっと日本のキリスト教界で用いてもらえるといいんだけどな。私がアメリカで勉強したことを知りたいっていう人たちはいないだろうか?どういうことを勉強したのかっていうのを、まず明らかにしていかないと、だけどね。

がんばろーうっと。






2015年3月10日火曜日

つれづれなるままに

説教や映画の感想ばかりのブログになりつつありましたが、なんかフツーに自分のことも書いてみようかなと思います。

小学校のころだと思うんですが、「吟遊詩人」ていう言葉に出会ったんですよね。それ以来、吟遊詩人のように生きたいなぁってぼんやり思ってました。今、まだ35年しか生きていませんが、振り返ってみると吟遊詩人ぽい人生じゃないかと嬉しいのか悲しいのかよくわからなくなっています。

3年ごとに人生の転換期がきていたような20代と、30代前半でした。一般的な、両親がいて実家があってという家庭環境は私にはないので、頼れるのは、やっぱりいつも神さまだけだったなぁ。まさか、お金も人脈もない自分が留学できるなんて本当に、神さまの導き以外の何物でもなかった。

今年からやっと、腰を据えてお仕事に取り組ませていただくことになります。予想はしていましたが、都会の教会とは比べ物にならない苦労を抱えることになりそうです。キリスト教が小さい地域の中でも、一番小さい教会に仕えさせていただくのは、私にとってとても誇りなことだと思う。

母が友人に誘われて教会に行くことになったおかげで、私の人生は教会と神さまと常に繋がっている人生になった。母上に感謝。これから、全然できてなかった恩返しもしていかねばならない。


教会を、誰がきても楽しいな、来てよかったなって思える場所にしたい。高校生の頃かな?ワープロを買ってもらって、その頃の教会が単立だったので、私が毎週週報を作る担当をしてた時から、もっと教会に友達を誘えたらいいんだけどなぁ、どうしたらいいのかなぁと思ってた。その頃から、教会に馴染んでいない人が来ても楽しくないだろうなぁ、って思ってたんだよね。

なんで楽しくないんだろう?イエスさまのところには人が集まってきたのに、今の教会には人が集まらないのはなんでだろう?って。

イエスさまの教え=内容は素晴らしいのに、人が集まらないのは、伝え方・魅せ方=方法が間違っているせいだと思う。

小さい教会だからこそ色々なアイデアを自由にやらせてもらえそうなので、4月からが楽しみ。

都会からも、遊びに来てくれる若者が増えるといいなぁ。



一応、犬。。



2015年2月23日月曜日

説教「人の予定、神の旅程」@内丸教会

人の予定、神の旅程

改定聖書日課 受難節 第一主日
2015年2月22日
於・日本キリスト教団内丸教会

旧約聖書 詩篇25章1−11節(口語訳)
賛美歌21:211,446,91

                              


Remember that you are dust, and to dust you shall return.
あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです。

この言葉は、灰の水曜日の礼拝で用いられる言葉です。創世記3章19節の記述に基づいています。灰の水曜日は、レント(受難節・四旬節)が始まる日です。昔のキリスト教徒は、イースター(復活祭)の日の前に、40日間の節制や断食の期間を設定していました。イースターは毎年お祝いする日がちがいますので、灰の水曜日も毎年ちがいます。今年は、2月18日(水)でした。ですので、今日2月22日の礼拝は、レント(受難節)が始まって最初の日曜日の礼拝ということになります。

レントの期間は、昔は、洗礼の準備期間でもありました。イースターの日曜日に洗礼を受けるのが一般的だったからです。この期間、人々は、神さまについて、人間について、教会のリーダーから学び、思い巡らし、自分にとってイエス・キリストの救いとはどういうことか、と考えてきました。

本日お読みしたのは、詩編です。詩編は、礼拝において交読や賛美として用いられることが多いので、説教のなかで聴くというのは皆さんにとって珍しいことかもしれません。これは私が選んだのではなく、英語圏のカトリック、プロテスタント、聖公会つまりほとんどの教会で用いられている「改定聖書日課」の指定の箇所です。

旧約聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はトーラー(律法)というジャンルの本として分類されています。詩編は150篇あり、律法の区分にならって、5つのセクションに分けて編集されています。セクションの最後の部分に「アーメン、アーメン」と書いてあるところが区切りです。今は聖書研究の時間ではないので特に覚える必要はないのですが、申し上げておきますと、第一部が41篇13節まで、第二部72篇19節、第三部89篇53節、第四部が106篇48節、最後の150篇は全体として締めくくりのセクションです。

今日の詩編25篇は、第一部に含まれているということです。しかし、区切りがあるのがわかっても、実は個別の詩編がいつ誰によって書かれたかというのは、学者たちが一生懸命研究して調べてもほとんどはわからないのです。ただ、おおまかに、ほとんどの詩編はバビロン捕囚の出来事の後に作られたと推測できるそうです。

バビロン捕囚は、紀元前586年、エルサレムがネブカドネザル王によって征服された出来事ですね。「神の家」だったエルサレム神殿も破壊され、イスラエルの指導者たちは強制連行されてバビロンに連れて行かれました。貧しい一般の人々はエルサレムに残され、廃墟を目の前に征服者の支配のもと、暮らすよりほかありませんでした。

バビロン捕囚は、イスラエルの人たちにとって、分断の痛みでした。また、古代の戦争はその民族の神と神の戦争とも捉えられていましたから、イスラエルの神が敵の神に負けたという敗北の痛みでもありました。詩編のひとつひとつの歌・祈りの背後には、イスラエルの人たちのこのような苦しみの経験があります。

今日の詩編の「わたしの敵を勝ち誇らせないでください(2節)」「すべてあなたを待ち望む者をはずかしめず、みだりに信義にそむく者をはずかしめてください(3節)」さらに読み進めると「わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもってわたしを憎んでいるかをごらんください(19節)」などは、捕囚の分断と敗北と喪失の痛みから生まれた祈りであります。

しかし、この詩編の祈りをそのまま、どなたかが内丸教会の代表として教区や地区の集会で行ったら、他の教会の方はびっくりしてしまいますね。私たちは公の場では美しく祈るように訓練されていますし、もちろんマナーとしてそうすべきでもあります。

一方で、私たちは美しい祈りだけではなく、魂から出てくる苦しみ、憎しみの言葉も持っているのです。今日の詩編の祈り手は、人間の罪、悪、戦争による人殺し、破壊、人が奴隷とされる経験を目の当たりにして祈りを絞り出しました。

25篇の祈りでは一人称は「わたし」になっていますので、これは個人の祈りですが、詩編全体がイスラエルの共同体の中で用いられてきた文書ですので、共同体の祈りともいえます。

  1:主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
  2:わが神よ、わたしはあなたに信頼します。
この祈り手は、人間の罪、悪を目の当たりにして、希望がないどんぞこから「私は人間に望みを抱くのではなくて、神さまを信頼します」と祈りはじめています。


                              


ところで、オバマ大統領も彼の考えを参考にしているラインホールド・ニーバーという神学者がいます。1892年誕生、1971年78歳で死去しました。アメリカの外交政策に大きな影響を与えました。ニーバーは私が昨年5月に卒業したアメリカのイーデン神学校の卒業生でもあります。世界で最も有名な神学者の一人です。

彼は、キリスト教における人間の本質は、逆説を含んでいるといいます。より高い次元の人間の偉大さを認めるのと同時に、人間の悪・罪について、とても真剣な見方をするということです。

私は、神学校在学中、組織神学の授業のグループディスカッションで、悪について話し合う機会がありました。私のグループに教授が様子を見にきた時、私はこういうような考えを述べました。「人は悪いことをしたくてするわけではないだろうし、善悪を区別して罪を決めるのは難しいのではないか。」そうしたら、教授がはっきりと、強い口調で「玲奈、悪は、悪。悪は罪なんだ。」とおっしゃいました。

その教授はスリランカ出身の女性で、スリランカの内戦を経験した人でした。人が殺され、村が焼かれるような場面を実際に見てきたわけです。

日本のご年配の皆さんも、戦争を経験されていますね。
私はそのような経験をしていないので、もしかしたら人間の罪、悪を軽く見すぎていたのかもしれません。プラス、自分が我慢すればいいという思いもありました。

でも、そうではないのだ、
「悪は悪。悪は罪。」と認識させられました。

                              


私は、日本ではかなり少数派である若い世代のクリスチャンであり同時にセクシュアルマイノリティ当事者です。詳しくはお話しませんが、セクシュアルマイノリティへの偏見による悪意を日本の教会生活のなかで経験しています。全世界のキリスト教のコミュニティの中に、同性愛者や性同一性障害者への差別、偏見、無知があります。神の愛を語る牧師やキリスト教徒が、同じ口で同性愛者、性同一性障害者に対して悪意と偏見に満ちた言葉を投げつけます。アフリカの一部の地域では、実際に殺人まで行われています。日本では、言葉が、セクシュアルマイノリティを精神的に殺します。本当に辛いことです。

                              


レントは、このような人間の罪を真剣に考える期間です。
私たちは「罪」をどのように考えたらよいのでしょうか?

現代アメリカの著名な説教者で神学者のバーバラ・ブラウン・テイラーという女性がいます。彼女は1984年からアメリカ聖公会の司祭で、2014年4月には、ビジネス雑誌TIMEの特集「100人の最も影響力のある人物」の一人に選ばれました。
Speaking of Sin The Lost Language of Salvationという著書の中で、法学と医学の言語(=考えの枠組み)が社会や教会で大きな影響を持つようになったことで、罪に関する言語(=罪を考えるときの枠組み)が聖書的ではない方向で解釈されるようになってしまったと指摘します。彼女の指摘を、ごく簡単に説明します。

法学モデルの考え方は、どちらかと言えば保守的な教会で、
医学モデルの考え方は、進歩的な教会でなされていると彼女は観察します。

法学モデルは、罪を犯罪のように解釈します。罪を犯した原因は、基本的にはその行為を行った人間本人にあります。小さな罪は代償を支払うことで償われるけれども、最終的には裁かれ、罪人は地獄に堕ちるという考え。

医学モデルは、罪を病気のように解釈します。病気になったのは人間の責任ではないのだから、本人を責めることはできない。病気が起きた環境や過去のトラウマ的な経験を責めたり改善したりする必要があるという考え。

法学モデルにおいては、結局、どれが罪でどれが罪ではないのかという律法主義や罪人と罪人でない人たちという分断が生まれることになります。

医学モデルにおいては、人間本人が自分を振り返り改善する意識を持てないので、結局、病気である状態、罪深い状態から逃れられないということになります。

どちらのモデルも極端で通り一遍の考えになってしまうのです。これは考え方の枠組みの話ですので、法学や医学が間違っていると言っているのではありません。法学や医学の考えの枠組みで聖書に出てくる考えを捉えてしまうと、聖書の伝える考えの豊かさが、極端、単一的になってしまいますよ、ということです。

極端、単一的な考えは分断を生み、よき方向への変革(transformation)が生まれません。

                              


では、キリスト教神学の枠組みで考えるとどうでしょうか?
キリスト教神学はいつも、神と人、人と人の関係ということを考えます。

私とあなた。私と神さま。私たちと神さま。
詩編の祈り手は、神さまと向き合っています。
イエスさまは、いつも人々のところへ出かけて行きました。

キリスト教神学においては、私以外の誰かの存在、命、尊厳を考えることなしにはどんなことも考えられないのです。神さまでさえ、唯一でありつつ3つの個性的な存在ですね。父、御子イエス・キリスト、聖霊の神です。

「関係」ということから考えると、人間が時代ごとに作る法律・習慣・伝統を破ることがキリスト教が考える罪(sin)ではなく「関係を破壊する力」が罪ということになります。ここでは、刑罰や代償の支払いが中心的事柄ではなく、破壊された関係の修復、和解が最も重要なこととなります。

また、神さまや人との「関係」を台無しにしてしまう力を選ぶ「選択」さらに、そういう「選択をし続ける選択」が罪です。もし台無しにしてしまったとしたら、そこから立ち直るため「やり直しの選択」をしなければならない、それが悔い改めです。

キリスト教神学では「関係」ということ抜きにしては、何も語れません。


罪とは、
相手の尊厳・命をおとしめるような行為・言動。破壊する力。
神と人、人と人との関係を台無しにする選択。
日本では、道にゴミを捨てないとか、時間を守るとか、礼儀正しく挨拶をするということが、とても重んじられていて、それはいいことなのですが、それができないことが「罪」や「悪」のように勘違いされていないでしょうか?

礼儀やマナーがなっていなくてもいい、と言っているのではありません。
木を見て森を見ず、になってしまっていませんか?ということです。

罪とは、
相手の尊厳・命をおとしめるような行為・言動、破壊する力です。
神と人、人と人との関係を台無しにする選択です。その選択をし続ける選択です。
Remember that you are dust, and to dust you shall return.
あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです。

                              


詩編の祈り手はこう祈りを続けます。

 4:主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。
 5:あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。
   あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。

人間の道ではなく、神の道。罪の道ではなく、恵みの道。悪の道ではなく、愛の道。
これらを教えてくださいと願う祈りです。

人は予定を立てます。特に日本人は細かい予定を立てるのが好きだと思います。会合や宿泊での集まりなどがある場合、資料が配られ、そこには何時から何時まで、これ、あれ、それ、このグループはこう動く、あのグループはそっち、などと隅から隅まで指示があります。それに、日本の交通機関というのはめったに遅れることがありません。素晴らしいことなのですが。

予定を立てると、私たちはなんというか、未来を支配したような気分になりませんか。


しかし、私たちの予定は言ってみれば「ちりの予定」なのです。
悲しいほどに限界のある予定です。

それに対して、神の旅程は、私たちを罪から恵みへ導く旅の全体図です。
旅においては、目的地につくために旅程が変わることもありますね。
旅程の目標は、目的地を知り、そこにたどり着くことです。

7節、8節、11節に3回もでてくる「いつくしみ」という言葉は、英語では steadfast loveと訳されています。この英語を直訳すると、「不動の、揺るがない、確固とした愛」です。神さまの旅程は、「不動の、揺るぎない確固とした愛」に基づいた旅程なのです。

私たちの人生は、「不動の、揺るぎない確固とした愛」の旅程です。
この旅は一人旅ではありません。
なぜなら、キリスト教は人との関係なしには存在しないから。
だから、教会があるのです。教会は、神の旅程を授かった旅人の集まりです。

                              


私は、自分のまわりにいる人たちの尊厳を尊重しているだろうか。
私は、どんなふうに私に関わる人たち、そして神さまと関係を築いているだろうか。
相手が子どもであっても、女性であっても、年下であっても、外国から来た人であっても、障がいや病気を持つ方でも、セクシュアルマイノリティであっても、対等な人間として付き合っているだろうか。失礼な話し方や態度をしてはいないだろうか。

日本の教会は、日本に暮らすすべての人たちの尊厳を尊重しているだろうか。
教会は、どんなふうに日本に住む人たち、そして神さまと関係を築いているだろうか。
社会で弱い立場にある子ども、女性、若者、高齢者、外国から来た人、障がいや病気を持つ人、セクシュアルマイノリティ。その人たちも神様に愛されていると心から感じられるような場所に、教会はなっているでしょうか。


                              


アメリカには人種差別がまだまだあります。最も力(経済力、社会的地位、教養など)を持つ人たちは大人の白人男性です。日本は性別差別主義、年齢差別主義社会です。最も力を持つ人たちは、日本国籍を持つ中年の男性です。旧約聖書の世界でも一番力の強い人たちは男性でした。最も強い立場にある人たちは、その経済力、社会的地位、教養などを自覚し、より注意深く自分と人と、神さまとの関係を考える必要があります。

先日、岩手地区の牧師会に出席させていただきました。女性の主任牧師は一人でしたね。驚きました。日本キリスト教団は日本のプロテスタント教会では一番人数の多い集まりですが、全国の教区で一人も女性の教区議長を出していません。驚きますね。

神さまは、すべての人間を対等に大切な存在として作られました。なのに、人間は、最も強い立場の人たちだけがリーダーシップをとったり、社会のルールを決めたりしてしまう状態を続けています。当然のことですが、女性だからこそできること、障がいを持っている方だからこそ、ご病気の方だからこそ、若いからこそ、ご年配だからこそ、セクシュアルマイノリティだからこそできることというのはあるわけです。

リーダーシップをとる集団の色を一色にしてしまうと、通り一遍の極端な考えに傾く可能性が大きくなります。そして、極端な考えは、人を排除し分断を生みます。

教会は、人を迎える場所であり、排除する場所では決してありません。
教会は、神の旅程にしたがって旅をする人々の集まりです。
お互いの旅程を交換することはできません。それぞれの旅では、予定外の悲しみ、苦しみもあるでしょう。教会はそれらを共有し、励まし合う集まりです。ちりである人間の予定を厳密に実行するための集まりではありません。

Remember that we are dust, to dust we shall return.
わたしたちはちりであり、ちりに帰っていくのです。
罪と向き合いつつ、願うのは主の道。神の旅程です。
祈りましょう。


髪を一つに結ったら、びみょうな感じでした。おでこが広いんだな。



参考文献・資料
  1. 日本聖書協会『聖書 新共同訳旧約聖書続編付き』
  2. 日本聖書協会『聖書 口語訳』(1981年)
  3. ボンヘッファー著、森野善右衛門訳『教会と宣教双書2 共に生きる生活』(新教出版社、1975年、1998年)
  1. Society of Biblical Literature General Editor Harold W. Attridge, Fully Revised and Updated The Harper Collins Study Bible NRSV, (HarperCollins Publishers, 2006)
  2. Adele Berlin and Marc Avi Brettler, Editors, Michael Fishbane, Consulting Editor, The Jewish Study Bible Jewish Publication Society TANAKH Translation, (Oxford University Press, 2004)
  3. Marcus J. Borg, Speaking Christian Why Christian Words Have Lost Their Meaning and Power and How They Can Be Restored, (HarperOne, 2011)
  4. Walter Brueggemann, Introduction to the Old Testament The Canon and Christian Imagination, (Westminster John Knox Press, 2003)
  5. Ruth C. Duck, Worship for the Whole People of God Vital Worship for the 21st Century, (Westminster John Knox Press, 2013)
  6. Roger E. Van Harn and Brent A. Strawn, Psalms for Preaching and Worship A Lectionary Commentary, (William B. Eerdmans Publishing Company, 2009)
  7. Kathryn Matthews Huey, United Church of Christ Sermon Seeds Focus Scripture: Psalm 25:1-10,Weekly Theme: God's Loving Paths/Blessed Connections, (http://www.ucc.org/worship_samuel_february_22_2015, Accessed by February 20, 2015)
  8. Daniel L. Migliore, Faith Seeking Understanding An Introduction to Christian Theology, (Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1991, 2004)
  9. Barbara Brown Taylor, Speaking of Sin The Lost Language of Salvation, (Cowley Publications, 2000)
  10. United Church of Christ Local Church Ministry, United Church of Christ Book of Worship, (United Church Cleveland, Ohio  2012) 


2015年2月6日金曜日

Every little things want to be loved.

The Secret Life of Bees 『リリィ、はちみつ色の秘密』

原作の小説のタイトルが映画のタイトルそのままになっています。蜜蜂の生活(Life)と登場人物たちの人生(Life)が比喩的に表現されてるのですが(実際、監督もインタビューでそういうようなことを言っていたし。)「はちみつ色の秘密」だと意味がわからないです。

DVDの裏の解説は「少女の過去に隠された<家族の絆>を繊細に…」とか書いてありますが、うーん、どこが?「やがて彼女は母にまつわる驚くべき真実を知り…」???別に驚くべきでもなかったし、そこがメインの映画じゃないと思うんですけど。。。

1964年、Civil Rights Movement のまっただ中の時代に、力強く賢く生きた黒人女性たちの家族のあり方、そして彼女らが、自らの家庭で虐げられた白人少女に与えた大きな愛の物語、だと私は感じました。

監督、脚本家、原作者、製作者のインタビュー映像も全て見ましたが、「少女の過去に隠された<家族の絆>を」描いているなんて一人も言ってませんでしたよ。

黒人のおばちゃんらしいビッグ・マザー的な存在の長女、神経質だけど家族思いの音楽家の次女、亡くなった双子の姉妹の悲しみや誰かの感情への共感が豊かな一番下の妹。
両親を亡くしているけれど、蜂蜜を売って文化的で教養のある生活をしている素敵な黒人姉妹のところに、主人公の白人少女とその子のお家の召使いだった黒人少女が舞い込んで物語が始まる。

それぞれ抱えている深い痛み、傷が、ひとつの家で過ごす時間と日々の労働を通して癒されていく。その過程で、人種や血縁を超えて、彼女らが家族となっていく。

60年代の黒人女性家族の姿がメインなのに、DVDの日本語解説にはヒトコトも書いてない。なんでなんだろう?どうして、こうなんだろうか、日本って。日本語の情報って、嘘か薄っぺらい表面的なものばかり。最近。ため息。

帰国してから、映画は英語字幕・音声で見ているのですが、これは日本語だとどういうふうに訳してるんだろうって思うところは一度止めて日本語字幕も見ています。

日本語字幕で見ると文章の意味(含蓄)が半分位になってしまっているような感覚を覚えます。プロの翻訳家が訳してもこうなるのか、翻訳って難しいんだな、と思わされます。私は、3年間アメリカに一人で住んで、英語で英語を理解する力を身につけさせてもらってほんとうに感謝なことです。

特に、revelation とかキリスト教用語の意味合いっていうのは、翻訳じゃ全然伝わりませんもんね。

今日のブログの記事のタイトルは、物語の中で黒人おばちゃんが白人少女に語る言葉ですが、日本語字幕では「ハチも愛されたいのよ」となっていました。会話の文脈を重視したのでしょうけど、、いやー、、どうなんでしょうか。

「すべての小さな者たちは(どんな小さな者たちでも)愛されることを望んでる」So do we. (わたしたちもそうよね?)っていう意味を込めた言葉だったんじゃないのかなぁ。
とまあ、いろいろ、突っ込みながら見ました(笑)

一人ひとりが自分の役割を果たし、傷と向き合い、自分のやり方で前に向かっていこうという強い意志、気概が感じられた映画で、とても励まされました。私にとってはかなり好きなタイプの映画です。もうすぐ「Selma」が盛岡でも上映されるはずだから、その前に見るのに格好の映画でした。

宮本輝の小説も、こういう再生の物語が多い気がしますね。日本の小説の場合は、あまり人種の問題は絡んでこないけれども。

私も留学中、黒人女性の友達のご家庭で癒やされた経験があります。南部の黒人の人達が好んで食べる伝統料理、ソウルフードもいただきました。特典映像で役者の一人も言ってましたが、決して健康的ではないんですけどね(笑)私、コーンブレッドはアメリカの家庭料理の中で一番好きかも。

アメリカの黒人コミュニティが経験してきた苦難の日々。今なお、その不正義は続いている。私たち日本に住む者たちの中には「日本にはそういう差別はないし、なかった」なんて軽々しく言っちゃう人たちがいるけど、いたでしょう?いるでしょう?

「差別なんてない」という見せかけの現実で生き続ける日本人と、自分たちの負の部分に向き合おうとするアメリカ人。

アメリカ政府は悪いこともいっぱいしているけど、良心的なアメリカ人たちの、問題から逃げないであがいて動く姿勢からは、大いに学ぶ必要があると思いますね。

もちろん、日本にもそういう人たちは少なからずいますけども!少なすぎるかも…。


http://m.imdb.com/title/tt0416212/

2015年2月3日火曜日

希望と愛はいつも途上にあり。

『天使の贈り物』を見ました。原題は、The Preacher's Wifeでしたが今回の映画の場合は日本語の題名のほうがあってるんじゃないかな?と。ホイットニー・ヒューストンが牧師の妻の役なんですね。黒人牧師のお仕事の様子がすごーくリアリスティックに描かれていて、うんうん、あるだろうなぁ、こういうこと。ってうなづきながら見ました。

牧師家庭って難しいですね。私は、異性愛者の牧師のような家庭を築けるのかどうかわかりませんが、いずれにせよ、牧師には家族より優先しなければならない出来事が24時間いつでも訪れてしまいますもんね。

最後の説教の場面、参考になりました!私は、勉強は大事だと考えていますが、聖霊が語ってくださることを信じているので、時には原稿なしでの説教もできるのだと思っています。アドリブで語る内容を変えることだって、もちろんアリだと思います。ただ、それをするには私にはあまり才能がありません。才能がないんであれば、経験を積むしかない。

神さまは常に私たちに喜びと、希望と、愛を届けてくださる途上にある。ということを改めて感じさせてくれる映画でした。

でも、天使は孤独ですね。。今は、私は、ハッピーエンドでシアワセ牧師家庭に戻った主人公たちのもとを去る天使に一番近い気持ちでした。





それと、昨今の世界、日本におけるニュースを見ていて。

やっぱりね、日本に蔓延する知ることをあきらめる怠惰状態(個人の問題)/知ることをあきらめさせるような過酷労働のシステムの強制(労働環境の問題)って、Evil (悪)なんだと思うんです。

日本には「一定の信念を通じて物事を考える組織的な学びのチャンス」がほとんど、ない。新興宗教や自己啓発セミナーや、ビジネスセミナーがそういうものを提供しているのかもしれないけど、それって日本人が重んじる、長い長い伝統に基づく確固とした信念基盤を持ってないですよね。

戦後すぐには戦中の天皇崇拝への対抗のためにも必死で哲学や神学に取り組んだ人たちがいたのだろうけど、高度成長期、考えずに働き続けたおかげで富を手に入れ、宗教を毛嫌いしてきた人たちが今の日本のマジョリティなんじゃないのかな。

そういうマジョリティが社会を動かしているんだもの、倫理もなにもないですよね。

私よりずっと年上の人たち、宗教をバカにしてきたという点では尊敬できない。その人たちの子どもたちが、さらに尊敬しづらい人間になりつつある。

私は、日本の皆さんが「キリスト教という枠組み(ある一定の信念)を通じて物事を考える組織的な学び」をできる場・機会を広めたい。

日本人をキリスト教に改宗させるため、じゃないですよ。

シンプルに、よい人間であるために。人に良いことをするために。

For many Japanese who doesn't like any religious practice - I believe the purpose of human life is simple: to be a good person and to do good for the others. And if you want, you can walk humbly with God.

2015年1月30日金曜日

説教準備のオンライン資料

アメリカには、オンライン図書館があります。ATLA Religion Database (American Theologyical Library Association)という神学専用の文書のデータベースです。すごいですよ、これ。1924年以降の論文、雑誌記事が検索できちゃいます。全部PDFで閲覧できるんです。登録された神学校の学生、教授は無料で使えます。私は、イーデン神学校在学中は自分の学校用のIDとパスワードで全資料を検索できました。超便利でした。今は卒業生用のIDをもらっているので、制限はありますが、使っています。

日本からでも教会の牧師として登録をすれば、使えるはずです。

https://www.atla.com/about/pressroom/Pages/pr05-15-10_ATLASerials.aspx

ATLA Religion Database® (ATLA RDB®)
Database Details 
Total number of records: 1.8 million+, including the following:
1,776 journal titles in total, 593 which are currently being indexed
660,500+ journal article records
266,400+ essay records
602,500+ review records
299,700+ book records


キリスト教界でリーダーシップを取る仕事って知識を使いますよね。キリスト教界でも、けっこう、インターネットなんてって敬遠している方々もいますけれど、知識へのアクセスに溢れる世界が目の前にあるのに使わないのはもったいないです。

日本では、インターネット=出会い系みたいなイメージが強すぎるのかなぁ?

知識を使う仕事をする人にとって、「英語とインターネット」は、ものすごい高いハードルではないと思います。私も、留学前は英語なんて日常的に読みもしなかったし、そう簡単に理解もできませんでしたが、泣きながら勉強し続けれれば、何とか読めるようにはなるもんですね。

特にキリスト教は英語圏の知識や英語でコミュニケーションすることが圧倒的に多い宗教なわけです。これからの日本のキリスト教会の牧師は「英語とインターネット」をより活用して、もっともっと、世界のキリスト教徒たちと直接つながり、連帯・連携していくのがいいんではないでしょうか。

牧師、教師は、知識を増やすことをやめてしまったら、仕事放棄しているようなもんだと思うんですよね。知識だけでも経験だけでも、バランスがわるい。知識と経験をバランスよく増やしていきたいです。

ただ、年上の人が年下の人に知識(経験知)を授けるみたいな日本の一方通行な学びの風習はお断りですけどね〜(苦笑)私のほうがただ年齢が若いというだけで「あなたは若いんだから、経験が少ないんだから、私よりモノを知らないでしょう。」みたいな態度をなさる先輩方も時々いらっしゃるので、辟易としてしまいます。

年齢関係なく、経験してきた人生がちがうんだから、それぞれ、知っていることと知らないこともちがうでしょうよ。。

年上の方々の「知恵」や「伝統」を軽んじるわけではなく、謙虚に学びたいですよ。同時に、新しい世代の「新知識」や「新しい物の見方」も同じくらい尊重されうるんじゃないでしょうかね?

文化のちがいなのでしょうけど、アメリカのご年配の方々ほうが、外国から来た若い私へ尊敬をもって接してくれていると感じました。若いあなたが持っている新しい見方や考え方を教えてちょうだい、というような気概を感じました。

まぁ、ともかく、説教準備に役立つであろうサイトの紹介です。私が説教準備をする時には、以下のサイトはすべて活用しています。神学校の教授や友人たちも使っている信用できるサイトです。


改訂聖書日課の聖書箇所を読めますし、アートも検索できます。
The Revised Common Lectionary
http://lectionary.library.vanderbilt.edu/

以下は、改訂聖書日課に応じたテキストに関する資料や聖書解釈などを紹介。聖書箇所による検索もできるはず。一番下のは、ポッドキャストで番組を聴けます。30分くらいで説教者のインタビューと実際の説教を聴けます。

The Text Week
http://www.textweek.com/

Working Preacher
http://www.workingpreacher.org/

Day 1 - Preaching Podcast
http://day1.org/


アメリカ合同教会のオンライン資料。Liturgy と書いてあるのは礼拝で使える式文。Sermon Seeds は改訂聖書日課のテキストの黙想です。

The United Church of Christ Worship Ways - Liturgy
http://www.ucc.org/worship_worship-ways

The United Church of Christ Sermon Seeds
http://www.ucc.org/worship_samuel_sermon-seeds-resources



He, Qi. Calling Disciples, from Art in the Christian Tradition, a project of the Vanderbilt Divinity Library, Nashville, TN. http://diglib.library.vanderbilt.edu/act-imagelink.pl?RC=46099 [retrieved January 30, 2015].
Original source: heqigallery.com.


日本のキリスト教会を担っているリーダーたちと切磋琢磨して、学び続けたいですね。



2015年1月28日水曜日

なぜアクション映画?


『LUCY』と『風立ちぬ』を見ました。

人間は、自分の脳に10%しかアクセスできていないが、100% アクセスできてコントロールできるようになったらどうなっちゃうか?主人公のスカーレット・ヨハンソンが、マフィアによって運び屋をさせられるべく新種の麻薬を手術でお腹に袋ごと入れられちゃって、それが漏れて、体内に取り込まれた麻薬で脳をコントロールできる数値が上がっていっちゃうお話。

麻薬を取り戻そうとする韓国のマフィアとのアクションに期待してました。でも、銃で撃つのばっかりで血が多くて少ししんどかった。女性が主人公のアクション映画って惹かれるんですよね(笑)髪の毛の色は金髪じゃなくてもいいのですが、ああいう顔の人がわりと好きです。目の保養でした。えへ。

暴力満載映画のあとはアニメにかぎりますね。私は『風立ちぬ』が公開されて日本で話題になっていたときアメリカにいたので、まだ見てなかったので、見ました。私がいたアメリカ中西部では、『風立ちぬ』これっぽっちも話題になってなかったです(笑)まぁ、そんなもんですよね。

飛行機オタクの純朴な若者と結核を患った女性の純愛ストーリーと私は感じました。最後のセリフの「生きて」、英語字幕を付けて見てたのですが、You must live. でした。これって『もののけ姫』のエンディングと同じですね。ジブリアニメが伝えたいメッセージはやっぱり「生きろ」ってことなんだろうな。

そうそう、『コクリコ坂から』は帰国直前にアメリカ人の友だちが持ってたDVDで二人で見ました。

『コクリコ坂から』も『風立ちぬ』も、戦争時代を背景にした純愛・家族物語に「生きろメッセージ」を取って付けてるような感じがして、あまり感動/感心できなかった。いつまでたっても「男子」と「女子」しか出てこない恋愛や家族を題材にするジブリには、最近興味がなくなってきたかもしれない。

この前アメリカからの帰国の時には、4つも映画見ました。

『Between Us』(ブラジル)
『Marvel's Guardian of the Galaxy』
『The Amazing Spider-Man 2』
『22 Jump Street』

どれも、面白かったです。

2013年の冬までは、アクションとかほとんど見なかったのですが、最近、アメコミ映画がとっても好きなんですよね〜。アメリカに行ったばかりの時の私は「アクション映画とか、あんなものを作ること自体、理解できない」とか思ってたのに、人って変わるもんです(笑)

変わった理由の一つは、アメリカの友人(黒人女性と白人男性)が、アメリカ人は映画に「夢」を求めるのであまり現実的な映画を作らないんじゃないか?っていうのを話してくれたのがきっかけ。日本やヨーロッパの映画のほうがどちらかというと穏やかで現実にありそうなストーリー映画が多い。一方、アメリカ人にとっては現実は現実で十分、映画を観る時くらい現実世界から離れたいっていう感覚があると思う、と。

一理あるな、と思ったんですよね。確かに、こういう話ありそうっていう映画よりは、ありえないでしょ!っていうのがわかっててる映画を観るほうが気持ちが晴れる。

次は何を見ようかな〜。

2015年1月27日火曜日

アイデンティティ誕生日

Timehopっていうアプリをスマホに入れています。

Facebook や twitter などで過去にどんな投稿してたかっていうのをお知らせしてくれるんです。1年前のこの日はこんなコト言ってたよ、2年前はこんな投稿してたよ、って。 きっと、子どもさんがいる人とかは子どもの成長の速さに驚いたりするのでしょうね。

私の場合はニュースの投稿なども多いので、こんな出来事があったか、とか思い出したり。 もうすぐ誕生日が来て、30代もちょうど真ん中の年齢になります。いよいよ、今年はやっとのことで一人で教会に奉仕させていただきます。大学を卒業したのが2002年。もう13年も経ったんだなぁ。

人生の区切りっていろいろありますが、私の場合は洗礼とセクシュアリティの自認とカムアウトが大きな節目ですね。

キリスト教徒として生きていく決心をして洗礼を受けたのが12歳の時なので、もう、人生の中でキリスト者として生きはじめるほうが長くなってる。

セクシュアリティを自認し始めたのが19歳頃。そこから数えると、本来の自分としての生き方を模索し始めて15年くらい。

15年経ってやっと、2014年にいちおうFacebook上で公にカムアウトしたので、「自分のための自分」として生き始めてからは、まだ1年目。

教会の、トランスジェンダーの友人はもっと長い期間、苦しんで生きてきて、やっと本来の自分として去年から生き始めたって人もいる。新しい人生の始まり。

最近は、LGBTに関する情報が新聞などの大手メディアでも取り上げられるようになってきたし、カムアウトする有名人や活動家もいて、一般のLGBTが若い時期に自分のアイデンティティを肯定できるようになってきてるのは、とてもいいことだなぁと思う。うらやましくもありますけどね。自分を肯定して生きていくのに時間がかかった分、苦しみと悩みで精一杯だった時期が長くなっちゃったから。それは決して無駄な時間ではないけれど、しんどかったし。

1月にアメリカに行ったときに友達と話してて、気づいたんですよね。カムアウトできるようになってからが本来の私の人生なんだから、まだ本来の自分としては0歳なんだよなぁって。友達が、その区切りって大事だと思うよって言ってくれたのでした。なるほどな、と思った。

カムアウトしてもしなくても、セクシュアリティに気づいたときって、LGBTにとっては大事な時。LGBTは、そういう意味では二度誕生日を迎えるのかもしれない。

自分の身体の誕生日も大事だけど、自分のアイデンティティの誕生日も大切にしていきたい。

みなさんのアイデンティティ誕生日は、いつでしょう?

写真は一昨年のわたし。
あの髪型も好きだったなあー。

The Small Talk PDF一覧

2019年1月から5のつく日に書き始めた個人通信のPDF版にアクセスできる一覧です。自分で撮影した写真、Unsplash  https://unsplash.com/  というサイトからお借りした美しい写真も掲載しています。 2019-0215 The Small Talk....