2014年10月6日月曜日

説教「賢さを授かって」@日本キリスト教団釜石教会(2014.10.5)

「賢さを授かって」
God’s wisdom for the people

改訂共通聖書日課 A年
YEAR A –  THE 17TH SUNDAY AFTER PENTECOST, PROPER 22
2014年10月2日 於・日本基督教団釜石教会
聖書箇所 旧約聖書 創世記20章1-4, 7-10, 12-20節(新共同訳)

                              


今日の箇所は、教会に長く通っている方々にとってはすでに何度か読まれたことのある箇所だと思います。日本語で「十戒」とタイトルが付けられている聖書箇所です。

私は英語で神学をしてきたばかりなので、英語も一緒にお話させていただくことをおゆるしください。英語ではTen Commandmentsといいます。コマンドという動詞は「命令する」という意味がありますので、コマンドメントは、十の命令というニュアンスも感じ取れます。

もうひとつ、The Decalogue(デカローグ)という英単語もあります。ギリシャ語とラテン語で、「deca(デカ)」は、単語のはじめにつく部分(接頭辞)で10、あるいは10の1セットというような意味。ローグは、新約聖書のヨハネ福音書の最初のほうでよく出てくる、ロゴスと同じ語源ですので、言葉、しかもこの場合は「話された言葉」という意味です。

旧約聖書の元の言語であるヘブライ語では、このデカローグに近い言葉が十戒のタイトルとして使われています。つまり、「十の戒め・戒律」や「十の命令」という言い方よりは、ten words (utterances)「十の話された言葉」が、一番、もとの言語ヘブライ語でのタイトルに近い意味合いです。


                              


神さまが、人々に、語った「十の言葉」は、出エジプト記の中で、指導者であるモーセを通じてではなくて直接、神さまから人々に語られた唯一の言葉たちです。

人々というのは、エジプトで400年近く奴隷生活を送っていたイスラエルの民と呼ばれる人たちです。この人たちは、エジプトから出発して旅をしています。


旅の道すがら、この人たちは自問します。
「自分たちは何者なのか?」
「自分たちを奴隷生活から解放すると言ってくれた存在は何者なのか?」
「たびたび遭遇する飢えや渇きから自分たちを助けてくれる存在とは何者なのか?」

現代の私たちが聖書を読むと、この人たちは「イスラエルの民」で「神さま」が彼らを助けてくれている。とわかります。しかし、出エジプト ― エジプトから脱出してエジプト王の支配から逃れる旅の出来事が起こっている最中の人たちには、自分たちは一体なぜ旅をすることになったのか、一体誰が自分たちに話しかけているのか、などというのはわかりません。

ある人にとって、ある共同体にとって、危機的な事件が起きたとき、その最中にあるとき、それは、あとからこうだったとは言えても、その時は「なぜこれが起きたのか?」というのはわからないものです。いや、あとから考えてももしかしたら、完全にはわからないものかもしれません。

また、ある事件によって、個人のアイデンティティや人との関係も、良くも悪くも、変わります。あの事件が起きる前と起きたあとでは私はちがう、という経験は、皆さんにもあるのではないでしょうか。


先日起きた御嶽山の噴火しかり、
神戸での小学校女児殺害事件しかし、
北海道での女子高校生による祖母と母の殺害、

遠く西アフリカ諸国でのエボラ出血熱、
中東での終わりの見えない紛争、
私の住んでいたアメリカ、ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官による黒人少年の射殺事件、

そして、
新生釜石教会の皆さんが特に、
決して忘れることができないであろう東日本大震災しかり、です。

「私たちは何者なのでしょう?」
「わたしたちにとって神とは何なのでしょう?」
「神はわたしたちに、何を語りかけているのでしょうか?」


                              


ところで、
Bible-beating、Bible-beater という英語があります。ちょっと特殊な言葉です。

Beating, beaterのビートは、打楽器を叩くような時に使う「連続して激しく打つ」という意味です。Bible-beating というのは、聖書でもって人を連打するという意味です。そのようなことをする人がBible-beaterです。

つまり、いい意味で使われる言葉ではありません。「聖書はこう言っている」「聖書にこう書いてある」と言って、絶対に曲げない自分の主張を相手に押し付けて相手を叩きのめすことを、Bible-beatingというのです。

アメリカでは、十戒や十戒に続く出エジプト記、レビ記の律法の詳細な決まりの部分がこのBible-beatingに用いられることが多くあります。十戒は、「私たちの人生にとっての処方箋のようなものであり、人生の取扱説明書のようなものである。神さまが私たちのことを思ってくださった決まりなんだから、絶対に、一字一句正確に守らなければならない!」

私自身もそんな風に、小さいころの教会生活で学びました。



皆さんは、いかがでしょうか。
今までどんな風に、十戒についての説教や聖書の勉強を経験しましたか。
十戒のすべてを守れる人はいると思いますか。

現代社会では、安息日を守ることはかなり難しいです。アメリカの神学校に行く前、私は両親が離婚しましたし、いろいろな事情があってアルバイトをかけ持ちしていました。一人暮らしの生活を維持するためには、日曜祝日も関係なく3つも仕事をしなければなりませんでした。しかし、それでも、収入は正社員の月給以下でした。

盗んではならない。は、どうでしょうか。私たち日本という国、は世界中から食糧を輸入しています。食べられない人たちもいるのに、その人たちへの配分を考えることなく、大量の食料を毎日消費しています。これが共同体全体としての盗み行為ではないと果たして言いきれるでしょうか。

一生のうちに、誰かのものを欲しいなと思わない人もいないでしょう。嘘をつかない人もいません。殺人や、姦淫も、さまざまな環境が重なれば、絶対に犯さないなんて言える人はいないはずです。

聖書の「戒め」「戒律」と真剣に向き合おうとすればするほど、なんだか気持ちが暗くなってしまうような気がしてきます。

18節には「雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ」た。とあります。厳しい「戒律」に加えて、この様子、まさに噴火が起きたかのような状況を目撃したら、それは、恐ろしいですよね。


                              


では、十戒って結局なんなのでしょうか。

「十の戒律」「十戒」というのは、ひとつの解釈です。この言葉そのものが与えてきたイメージは小さくありません。神から人へトップダウンにくだされた決して破ってはいけない命令というイメージですね。しかし、こういう「十の戒律」という解釈に縛られる必要はないのです。

冒頭で申し上げたとおり、一番もとの言語に近いのは「十の話された言葉」です。
私は、それに近いなるべく形で「神さまからの十の語りかけ」と表現したいと思います。

今日は十の言葉のすべてをじっくり見ていくことはできませんので、ユダヤ教が第一番目と定めている言葉にだけ注目してみます。
というのも、ユダヤ教、アウグスティヌス、カトリック、正教会、ルター、カルヴァンによって、十の言葉への番号の振り方がちがうのです。その細かい違いについては、また別の機会があれば、お話できたらと思います。


ユダヤ教では「神さまからの十の語りかけ」の第一番目は、2節の
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」だけです。

これは、さきほどの、
「私たちは何者なのでしょう?」
「わたしたちにとって神とは何なのでしょう?」
「神はわたしたちに、何を語りかけているのでしょうか?」
という問いへの力強い答えです。


「私たちは何者なのでしょう?」

  あなたたちは、わたしが、奴隷の家=bondage とも訳されています。「束縛、囚われの身」という意味です。奴隷のような状態、束縛から導き出した自由な人々です。


「わたしたちにとって神とはなんなのでしょう?」

  わたしは主、あなたの神。もはや、エジプトの王があなたを支配するのではない、また、周囲にいる民族の神々が、あなたの神でもない。人間の欲望、金銭、権力も神々ではない。十戒の「文字」が神なのではない。わたしが ― あなたを苦しみから解放し続けるわたしが、神なのです。


「神はわたしたちに、何を語りかけているのでしょうか?」

  わたしはあなたたちを自由にしたのです。あなたたちは、もう苦しむ必要はない。わたしが、あなたを守り続けます。



「神からの十の語りかけ」は、「これを守らないとダメだ!」と私たちを脅すような、「ビートする、叩きのめすような」命令ではありません。

むしろ、神さまは、語りかけを通して、わたしはこういう者です。私とあなたの関係はこういうモノです。とわたしたちにその確かな存在を証明してくれているのです。

イスラエルの人々は、400年の奴隷生活、40年の荒野での旅を通して、大きな苦しみと絶望を味わいました。しかし、それで終わりではなかった。神は彼らに直接語りかけてくれたのです。


                              


釜石の皆さんの被災の経験とは比べ物にもならないとは思いますが、私自身も震災とそのボランティア活動を経験しました。

3年前、仙台で被災し、震災直後から東北教区での被災者支援センターの立ち上げに関わり、その後、アメリカに留学しました。当時は今より10キロ痩せていて、さらにボランティアの仕事のために一時は40キロ近くまで体重が減り、ヨレヨレの風貌でアメリカに降り立ちました。

私が住んだアメリカ中西部は、日本人はほとんどいません。アメリカ人の知り合いも一人もいませんでした。もちろん、誰ひとり東日本大震災を経験した人はおらず、思いを分かち合うことも、英語がほとんどできなかったので自分の思いを話すこともままなりませんでした。

日本ではまだみんな苦しみながら働いているのに。一人だけ留学してしまったという大きな罪悪感に押しつぶされそうでした。

飛行機を見かけるたび、
なぜこんな所まで来てしまったのだろう。
神さまはなぜ、私をこんなに遠くまで連れてこられたのか。。。


                              


しかし、今、私は東日本大震災は絶望では終わらないと、信じています。
正確にいうと、信じられるようになりました。


3年間の神学の学びと実習を通して、アメリカの教会の人たちとの出会いを通して、今までとはちがう新たな自分、日本とアメリカ両方のアイデンティティを意識するようになりました。

そして、神さまがくださる希望を信じ生きる強さを与えられ、(体重も10kgほど増えて)日本に帰って来ました。


神さまは、どんな人にも必ず、その人のうちに宿る強さを信じさせてくださり、束縛から自由にしてくださいます。


御嶽山の噴火の悲しみも、
神戸の女児殺害事件の不合理も、
北海道の女子高校生による祖母と母の殺害のショックも、

西アフリカ諸国でのエボラ出血熱の混乱も、
中東での終わりの見えない紛争による苦痛も、
アメリカにおける根強い黒人差別のひどさも、

そして、
東日本大震災も、震災後の東北も、

決して絶望では終わらない、と信じることができる強さです。


                              


「私はあなたたちを、あらゆる束縛から自由にする。」
「この、私が、あなたの神である。」

今までの呼び方でいえば「十戒」、私が提案した呼び方でいえば「神さまからの十の言葉」です。この十の言葉に込められた神さまの思いは、ただの命令ではないのです。

そんな神さまが信じられない時もあるかもしれません。
信じられない時もあって当然です。それは、「十の戒め」を完全に守ることが誰にとっても不可能なのと同じです。

だけど、それでも、信じられる、信じられない、信じたい、を繰り返して、私たちは必ず希望にたどり着きます。

私たちは「十戒」をBible-beatingの観点からうけとるのではなく、
「神さまからの十の言葉・語りかけ」「人間の力、想像をこえた神の賢さという贈り物」として喜んで受けとりませんか。



「私はあなたたちを、奴隷のような絶望の状態、苦しみ、痛み、悲しみに縛られた状態から救い出して自由にする。」

この神さまが地上に来てくださったイエス・キリストに従う私たちです。
そして、私たちは、そのイエス・キリストは、今も私たちと共におられると信じる共同体です。


希望がないわけがないのです。

(もう一度言います。)希望がないわけがないのです。



「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。
 人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない。」(哀歌2:31, 33)


私は、あなたたちを、痛み、苦しみ、あなたたちを縛り付けるすべての事柄から導きだして自由にする神である。



イスラエルの人々が神さまから受けとった「十の言葉」を受けとった時からずっと、神は語り続けています。

今日、私たちは、礼拝を通してその声を聞いたのです。


                              

プロの「謝礼をいただいて語る者」として、十数時間かけて文章を作っています。どうか、無断転載、コピーはしないでくださいませ。内容に関する感想、質問などは、お気軽にどうぞ。



参考文献・資料

  1. 日本聖書協会『聖書 新共同訳旧約聖書続編付き』
  2. Harold W. Attridge, The HarperCollins Study Bible NRSV, (HarperCollins Publishers, 2006)
  3. Joel B. Green, The CEB Study Bible, (Common English Bible, 2013)
  4. Adele Berlin and Marc Avi Brettler, Editors, Michael Fishbane, Consulting Editor, The Jewish Study Bible Jewish Publication Society TANAKH Translation, (Oxford University Press, 2004)
  5. Terence E. Fretheim, The Pentateuch, (Abingdon Press, 1996)
  6. Mark Allan Powell, The HarperCollins Bible Dictionary, (HarperCollins Publishers, 2009)
  7. Walter Brueggemann, Introduction to the Old Testament The Canon and Christian Imagination, (Westminster John Knox Press, 2003)
  8. Kathryn Matthews Huey, United Church of Christ Sermon Seeds Focus Scripture: Exodus 20:1-4, 7-10, 12-20, God’s Loving Wisdom/ Words of Life (http://www.ucc.org/worship/samuel/august-17-2014.html, Accessed by October 1, 2014)
  9. Patrick D. Miller, Preaching the First Commandment in a Pluralistic World, (Journal for preachers, Pentecost 2004)
  10. Amy Merrill Willis, Between Moralism and Moral Vision: Rediscovering the Decalogue—Exodus 20:12-16, (http://www.politicaltheology.com/blog/between-moralism-and-moral-vision-rediscovering-the-decalogue-exodus-2012-16/, Accessed by October 1)

行きの電車から。朝もや。

駅で。

駅で。

駅で。このニャンコたちはいったい。。。

久しぶりに駅でおそば!(立ち食いそば好きなんです。)

津波が来た高さが書いてあります。

教会の駐車場のあたりにあったバラ。

新生釜石教会。

虹とお魚のステンドグラス、とても素敵でした。

釜石駅。きっとまた来ます。



説教「奇跡のその先に」@日本キリスト教団土沢教会(2014.9.28)

「奇跡のその先に - God is at work.」

改訂共通聖書日課 A年
YEAR A –  THE 16TH SUNDAY AFTER PENTECOST, PROPER 21
2014年9月28日 於・日本基督教団土沢教会
聖書箇所 旧約聖書 創世記17章1−17節(新共同訳)


出エジプト記17章。出エジプト記は、全体で40章あります。

出エジプト記には、3つ大きなテーマがあります。1章から15章21節までの「出エジプト物語(exodus narrative)」15章22節から18 章までの「一時的居住の伝承(sojourn tradition)」、そして19章から24章が「シナイ山における出来事(Sinai Pericope)」です。25章以降40章までは細かい法の中身のことが書かれています。

今日のお話は15章22節から18章までの「一時的居住の伝承」つまり旅の途中の物語の最後のほうです。イスラエルの人々が、奴隷として暮らしていたエジプトを出発してしばらくたってからの場面です。

イスラエルの人たちは、神さまからの「住む場所を準備しているからエジプトから出なさい」という声に従いました。与えられた旅の計画によって、荒れた土地を歩いて移動していました。物語の前のほうの場面では、エジプトの王様や軍隊も出てきましたが、現在の場面は、エジプト王とエジプト軍から逃れてからの旅の途中です。

      

今日の箇所はとても短くて、わかりやすいといえばわかりやすいお話ですね。
皆さんは、今日の所を読んで、どんな場面を想像されますか?

「おっかしいなぁ。神さま、こっちに行けって言ったはずなんだけど。」

「エジプトから出てきて、神さまがこの道を行きなさいって言われたとおりに来てるはずだよね、私たち。」

「なんでここに飲み水がないの?」

「どうしてこんなところに来ちゃったの?」

「喉が渇いてしかたない。神さま、何してるんですか?」

「モーセ、ちょっと神さまに聞いてみてよ!」

私には、こんな、イスラエルの人々の声が聞こえてきます。

      

17章の1節、新共同訳聖書では「イスラエルの人々の共同体全体」と書いてあります。アメリカの主流派の牧師・神学者が使うNew Revised Standard Version という英語訳の聖書では、「congregation」という言葉が使われています。

このcongregation という英単語、現代の「教会」「教会員の皆さん」のことを表すときにも使う単語です。英和辞典には「礼拝に集まる教会の信者たち; 特定の教会に通う信徒全体」「the ~イスラエル人、ユダヤ民族」(ウィズダム英和辞典)とあります。

私たちキリスト教会に集まる者がこの箇所を読むとき、イスラエルの人々が教会に集まっている皆さんで、モーセがリーダシップをとる指導者である牧師、そして神さまという風にこの3者の関係を考えてみることができると思います。

      

さて、3者の関係を考えてみる前に、小さい頃に私が経験した聖書の読み方のことを少しお話させてください。

大学生までの私だったら、今日の聖書の話にはこういう印象を受けたと思います。

ああ、私たちって指導者であるモーセに不平不満を言ったり、神さまにも困ったやつだと思われるような人間なんだな。神さまはやさしいから、イスラエルの人たちのように神さまを試したり、モーセに不平を言う罪深い人間を助けてくれるけど、本当は不平を言わないようにしなくちゃいけない。イスラエルの人たちは悪い見本なんだ。神さまを試したりしちゃいけないんだ。この物語は、イスラエルの人たちの信仰の薄さを示しているんだな。モーセも困ってるし。

こんな印象、読み方のパターンが、私に植えつけられた聖書の読み方、聖書のおはなしの受けとめ方です。私は、クリスチャンの母に連れられて、物心ついた頃から教会に通っていました。私の育った教会では、いつもこのような流れの説教を聞いていたし、教会学校での学びもこんな風でした。母に買い与えられて読んだ聖書漫画も、そんな感じの描写でした。

モーセの困り果てた顔。聞き分けの悪そうなイスラエルの人たち、やれやれしょうがないなぁという感じの神さまの雰囲気。

植えつけられた考え方というのは、なかなか抜けないものです。
今でこそ、こういう「聖書の受け止め方」「読み方」が唯一の正しい答えではないと考えることができますが、幼い頃から教えられ続けた「人間の罪深さ」「罪と罰」「罪とゆるし」という視点でのみ聖書を読むという読み方は、私の中からなかなか抜けてはくれません。

皆さんは、いかがでしょうか?

      

このような読み方が間違いであるというわけではありません。
しかし、今日はもう一歩か二歩くらい引いて、この物語を眺めてみたいのです。

イスラエルの人たちは不平ばかり言って「罪深い」人たちだったのでしょうか?
モーセはこの人たちの「信仰の薄さ」を持て余していたのでしょうか?
「恵み深い神さま」と「罪深いイスラエル」という関係だけが、重要なのでしょうか?

      

15章から、イスラエルの人たちは「不平」を言い始めます。マラという場所では、水が苦くて飲むことができなかったので「何を飲んだらよいのか。」と訴えます。16章では空腹のゆえに、「エジプトの国にいれば肉もパンもいっぱい食べられたのに。」と嘆きます。そのたびに、指導者であるモーセはイスラエルの人々を叱りつけるように言います。「なぜ不平を述べるのか。」と。

神さまはどうでしょうか。そんなイスラエルの人たちとモーセに、どんなふうに関わっているでしょうか。

15章で、神さまは苦かった水をすぐ甘い水に変えるようにモーセに指示します。16章では、「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。」と言って、不思議なやり方で、毎日食べ物を送ってくれます。

そして、今日の場面でも、イスラエルの人々の代表者である長老の目の前で奇跡を起こします。指導者のモーセだけでなく、イスラエルの民もわかる解決のしかたをしてくれます。しかも、すぐに。

注意したいのは、神さまは別に、人々に対して怒っていないということです。


指導者であるモーセだけが、イライラして、「この民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています。」と神さまに訴えます。いや、よく読んでみましょう。人々は「喉が渇いた、水をくれ〜」と言っているだけで、モーセを石で打ち殺すなんて言っていません。

この物語には、平行箇所というのがあります。同じような内容で別バージョンのお話が聖書の別の場所に書かれているのです。それは、この箇所の場合、民数記20章2節から13節です。(新共同訳聖書、旧約247ページ)

民数記20章12節では、神さまが指導者であるモーセとこの場合はモーセの兄弟アロンに対しても、怒っているような感じです。「あなたたち(=モーセとアロン)はわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数記20章12節)と。


神さまがイスラエルの人たちに与えてくださっている助け、しかも迅速な助けと指導者への指示に注目すると、指導者モーセのフラストレーションのほうがむしろ不信仰だったようにも、思えます。

イスラエルの人たちは、今回のお話以前の15章16章での2回の経験を経て、神さまが助けてくれるのを信じて、見越して、不平を訴えていたのかもしれません。それに対して、指導者のモーセは、人々の訴えをそのまま神さまに伝えるのではなく、自分のフラストレーションをぶつけます。

モーセの態度は、教会においては指導者である牧師へ、注意をうながすものでしょう。自分は神さまの側にいると勘違いしてしまい、「この不平を言う困った人たちをどうしたものか」と悩む傲慢に陥ってしまう。

私自身を含め、牧師は、congregation 教会の皆さんに仕えていく者としてモーセの姿を反面教師にしなければなりません。

      

ところで、今回の聖書箇所の注解を、アメリカ合同教会の公式ホームページで読むことができます。バージニア州アーリントンにあるロック・スプリング教会の副牧師で、それ以前は合同教会の本部で働いていたRev. Mark J. Suriano 牧師は、注解で、イスラエルの人人、モーセ、神さまの関係について興味深い指摘をしています。

イスラエルの人々は430年にも及ぶエジプトでの生活を経験しました。(出エジプト記12章40節)後半はずっと奴隷だった生活で人々は、奴隷アイデンティティを身につけてしまった。奴隷だった現実に慣れすぎてしまって、自分たちを、「奴隷だった民」と見なすことからなかなか抜け出せない。

この17章の場面で、イスラエルの人々は、自分たちは「もはや奴隷ではない民」アイデンティティを学ぶプロセスにある、とMark牧師は解釈します。

この指摘を考慮に入れて今日のお話を考えると、イスラエルの人たちが、神さまに積極的に不平を言っているのは、間違いでも悪いことでもなく、「奴隷だった民アイデンティティ」からの解放の大切なプロセスなのです。

      

今まで彼らのそばにいたのは、エジプトの王様でした。王様に対して不平なんて言ったら力で抑圧されてきました。でも、この神さまは、自分たちを守り、愛し、自分たちの声を聞いてくださる。


苦い水が出て不平を言った時も、食べるものがなくて不平を言った時も、再度、水がなくて不平を言った時も、ちゃんと神さまはその不平に応えてくれました。奇跡の出来事は、イスラエルの人々にとって「私たちの上にいる王と私たち、奴隷」の関係ではなく、「私たちのそばにいる神さまと私たち」という信頼関係を築くプロセスでした。

現代の私たちにも、この出エジプト物語の機会は与えられています。

そのプロセスでは、不平を言ってもいいのです。人々の訴えは間違っていませんでした。この出来事が「マサ(試し、Test)」「メリバ(争い、Quarrel)」として記録されているのは、そのテストと不平をいう時間が必要だったと、出エジプト記の著者が考えたからではないでしょうか。

      

最後に、
「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(7節)
という問いについて考えてみます。

この問いを読んだ時にすぐに思い出したのは、東日本大震災後のボランティア活動の時のことです。私はアメリカの神学校へ入学する前、仙台で震災を経験し、震災が起きてまもなくその働きを始めた日本キリスト教団東北教区の被災者支援センターの立ち上げに関わりました。

県外からくるボランティアさん、ほとんどは一度も教会に行ったこともない皆さんを受け入れるコーディネーターのような仕事をしました。教会を宿泊先にしてもらい、その宿泊の手配をしたり、仕事を割り振ったり、滞在中の食事や生活のお世話を整えたり、などです。被災地現場でのお掃除の仕事も、もちろん一緒にしました。

いつも仕事の後に、シェアリングという時間を持っていました。それは自由参加だったのですが、好評で、多くのボランティアさんが参加していました。

私がそのシェアリングタイムにたまたま参加した時、両親がクリスチャンで仙台に住んでおり、自分は東京の方の大学で哲学を学んでいる20代前半の若者が、クリスチャンの人たちに特に問いたいと言って、こんなことを言いました。

「こんなにひどい出来事が起きて、その時、神は何をしてたんでしょうか。キリスト教を信じている人たちは、神はどうしていたと思いますか。」


ショックでした。その時の私にとっては、その問いは神さまへの冒涜のようにも聞こえた一方で、私自身の心の深い部分でもずっと問うていた問いでした。

そのグループに私を含めクリスチャンは3人いました。
県外からボランティアに来ていた中年の男性牧師が、創世記の解き明かしを始めました。もう一人の、信徒さんは、なにか別のことを言いました。私の番に回ってきた時、なんと答えたかよく覚えていませんが、「すごく重すぎる問いで、まだわからない。」と答えたような気がします。

命の危機が迫った時、実際に命が奪われる出来事が起きたとき、「神さまどこにいるのでしょうか?」「なぜこんなことが?」と問わない人はいません。それは、キリスト教徒であるとか仏教徒であるとか、無宗教だとか、関係なく、だと思います。

      

イスラエルの人々は、40年も荒野をさまよったと出エジプト記に書かれています。
歴史的には、出エジプトという出来事が実際にあったとは言いがたいようです。しかし、重要なのはそれが事実だったかどうかよりも、イスラエルの共同体が神さまと信頼関係を築くことができるようになるまでそれほどの時間がかかり、様々な奇跡の出来事が起きた物語が何千年も伝えられているということです。

その40年の間に、奇跡を経験せずに亡くなった人たちもいたことでしょう。
それでも、彼らは奇跡の出来事を記録に残しました。


「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(7節)
「私たちがあんなに辛かった時に、神さまは、どこにいたのか。」


「おっかしいなぁ。神さま、こっちに行けって言ったはずなんだけど。」

「エジプトから出てきて、神さまがこの道を行きなさいって言われたとおりに来てるはずだよね、私たち。」

「なんでここに飲み水がないの?」

「どうしてこんなところに来ちゃったの?」

「喉が渇いてしかたない。神さま、何してるんですか?」

「モーセ、ちょっと神さまに聞いてみてよ!」

イスラエルの人たちのように不平不満を正直に神さまに訴えるプロセスの中でこそ、私たちは神さまとの信頼関係に近づくことができます。


神は私たちの間にいる。私たちを、助けてくれる。
私たちの間で、働いている。

      

英語でいえば、God is at work. この表現がとても好きなんです。God is at work. 
At work. 執務中で、仕事に出て、就業して、就労して、従事して、出勤して、活動中で、現役で、という意味です。

イスラエルの人々が旅をしていた時も、私たちが生きている今日も、明日も、神は at work です。だから、今週も、奇跡は起こります。私たちには想像もつかない方法で。

いつも思い出してください。

上にいる王様のような立場の人たちを怖がらなくていい。私たちは奴隷じゃない。
自由に、正直に、不平を言っていい。不平を聞いてくれる神さまを信頼していい。

God is at work. 
神は at work. です。

      

無断転載、コピーはしないでくださいませ。内容に関する感想、質問などは、お気軽にどうぞ。



      


参考文献・資料

  1. 日本聖書協会『聖書 新共同訳旧約聖書続編付き』
  2. Harold W. Attridge, The HarperCollins Study Bible NRSV, (HarperCollins Publishers, 2006)
  3. Joel B. Green, The CEB Study Bible, (Common English Bible, 2013)
  4. Adele Berlin and Marc Avi Brettler, Editors, Michael Fishbane, Consulting Editor, The Jewish Study Bible Jewish Publication Society TANAKH Translation, (Oxford University Press, 2004)
  5. Terence E. Fretheim, The Pentateuch, (Abingdon Press, 1996)
  6. Mark Allan Powell, The HarperCollins Bible Dictionary, (HarperCollins Publishers, 2009)
  7. Walter Brueggemann, Introduction to the Old Testament The Canon and Christian Imagination, (Westminster John Knox Press, 2003)
  8. Kathryn Matthews Huey, United Church of Christ Sermon Seeds Focus Scripture: Exodus 17:1-7, (http://www.ucc.org/worship/samuel/october-5-2014.html, Accessed by September 25, 2014)
  9. John C. Holbert, Opening The Old Testament The Continual Need for a Sign: Reflections on Exodus 17:1-7, (http://www.patheos.com//Progressive-Christian/Continual-Need-John-Holbert-03-14-2014.html, Accessed by September 25)
  10. Juliana Claassens, Working Preacher Preaching This Week Commentary on Exodus 17:1-7, (https://www.workingpreacher.org/preaching.aspx?commentary_id=1975, Accessed by September 25)
  11. Nancy deClaissé-Walford, Working Preacher Preaching This Week Commentary on Exodus 17:1-7, (https://www.workingpreacher.org/preaching.aspx?commentary_id=160, Accessed by September 25)




説教前日は、ラーメン!ゴマ担々麺でした。

そして説教後の豪華なお食事

皆さんで歌の練習も。

とってもいい天気でした。

可愛らしい入り口ですねー!





2014年10月5日日曜日

説教「再び結び合う時」@日本キリスト教団内丸教会(2014.8.17)

「再び結び合う時」

改訂共通聖書日課 A年 年間第10日曜日
2014年8月17日 於・日本基督教団内丸教会
聖書箇所 旧約聖書 創世記45章1−15節(新共同訳)


今日のお話には、ヨセフというエジプトに住んでいる男性、ヨセフの10人の兄たち、ヨセフのひとりの弟が出てきます。なにやら、感動的な場面のようです。最後のほうで、ヨセフと弟のベニヤミンは抱き合って涙を流しています。

一体この兄弟に何があったのでしょうか?
兄弟げんかでもしていたのでしょうか?

今日読んだ聖書の箇所は、旧約聖書の一番はじめにある書物、創世記(創世記は50章あります。)その中の45章です。創世記には、イスラエル民族という人たちの家族の物語と、家系図が主に書かれています。この45章は、37章から始まる(50章で終わる)ヨセフという人が中心になる物語の最後のほうです。

ヨセフの父親ヤコブは、まだ弟のベニヤミンが生まれていない頃、末っ子のヨセフを特に可愛がったので、兄たちはヨセフのことをあまり好きではありませんでした。ヨセフは一人だけ「裾の長い晴れ着」を父からもらって着ていました。この言葉、英語では伝統的にたくさんの色がついたカラフルな上着と(a coat of many colors)と訳されてきました。サムエル記下13章18節でタマルという王女さまが着ているような服でした。

ある日、ヨセフは夢で兄たちの畑の収穫の束が自分の束にひれ伏す夢を見ました。別の夢では、太陽と月と11の星が自分にひれ伏す夢を見ました。それをそのまま兄と父親に話しました。兄さんたちは、当然、怒り心頭でした。(37:1−11)

王女さまが着るような服を着ていたということは、ヨセフは外で兄さんたちがするような羊飼いの仕事をしていなかったようです。外に出ていって、羊に餌をやったり水をやったり、世話をする仕事は王女さま服を着ていたのではできません。

父親のヤコブはある日、ヨセフに、遠くに仕事に出ている兄さんたちの様子を見てきなさいとお使いを頼みました。ヨセフが兄さんたちの様子を見に行くと、ろくに男の仕事をしていないヨセフがやってきたのを見て、兄さんたちはヨセフを穴に投げ込んでしまいました。一番上のルベンが、あとからヨセフを助けようとしたのですが、その前に、ヨセフは通りかかった商人につかまえられて、エジプトに連れて行かれて、奴隷として売られてしまいました。(37:12−36)

ヨセフは、その後エジプトでいろんなことがあり、王様に国じゅうの食糧を管理する仕事を任されました。王様の次に偉いくらいの地位についたのです。もう、パッと見ただけでは羊飼いの一族出身には見えなくなりました。王様から、エジプト風の名前「ツァフェナト・パネア」という名前をもらって、エジプト人の妻ももらいました。(41:45)エジプトの国で、ツァフェナト・パネアを知らない人はいないくらい有名な、権力のある人になりました。

ヨセフは、兄弟に妬まれたため遠い国に売られてしまいましたが、今では、食べ物にも困らない、立派な服と家もある、エジプトの中でも特にリッチな、羊飼いの家族と比べものにならないくらい裕福な暮らしをすることになったのです。

以上が今日の場面の背景です。そんなヨセフと兄弟が、奇跡的に再会しました。ヨセフの兄弟たちは、世界中に食糧不足が起きたために、食糧をもらいにエジプトまで旅してきたのです。



今日の聖書箇所では、7節から9節で「神が」という言葉が3回出てきて強調されています。教会では、ヨセフと兄弟たちの物語の中で示されている「神の摂理」の素晴らしさをたたえてきました。ヨセフが経験した悪い出来事を神さまが良いことに変えてくださった。ヨセフや兄弟たちの思いや行動、人間の力をこえて、神さまが働いてくださった。人間には知り得ない「神の摂理」です。ヨセフがエジプトで権力のある地位についたおかげで、ヨセフの元々の家族、イスラエルの一族が食糧不足の中生き延びることができたのは、神さまのおかげです。

神の摂理、つまり神は私たちの想像をこえたところで悪しきものを良きものにしてくださる、神の支配は偉大であるというこの物語への見方は、ある意味安心ではありますが、これはとても注意しなければならないことでもあります。牧師やキリスト者が、苦難の中にある人たちに向かって「その悪い出来事は必要なことですよ。神さまはその悪いことを良いことにしてくれます。」などと簡単に言ってしまうことがあるからです。そのような「神の摂理」の押し付けは、イエス・キリストが教える愛ではありません。

今日は、ヨセフとお兄さんたちの関係のあり方、兄弟の和解のプロセスの中で、神さまの愛がどのように私たちに働くのかということに注目してみたいと思います。



ヨセフと兄たちのような壊れた人間関係は、創世記において珍しいものではありません。4章で兄のカインが弟のアベルを殺してしまったことから始まり、創世記には、人間関係の衝突、争いは大きなものだけで、10ちかくもあります。

ノアの息子たち(9:20−27),アブラハムとロト(13:1−18),サラとハガル(16:1−16),イサクとイシュマエル(21:8−21),ヤコブとラケル(30:1−4),ラケルとレア(30:14−16),ヤコブとラバン(31:1−55),ヤコブとエサウ(25−36),タマルとユダ(38),ヨセフと兄弟(37;39−50)
ディナとシケム、シメオンとレビ(34:1−31)

イエスは、先日の聖書研究祈祷会で学んだ新約聖書マタイによる福音書5章において、復讐してはならない、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言っています。

ここでのヨセフはどうでしょうか。食糧危機にあった多くの国のため、立派に食糧を管理して分け合う素晴らしい人物、奴隷として売られてもへこたれないで王様の次の地位にまでのぼりつめた頑張り屋さんのように評価されるヨセフですが、彼は兄たちに対して根強い復讐心をいだいていたのではないかと思います。

弟ベニヤミンと兄たちが、食糧がなくて困って、はるばるエジプトまでたどり着いたとき、ヨセフはすぐに彼らが自分の兄弟だと気づきました。

ヨセフは、兄たちと弟が自分に気づかないのをいいことに、彼らを脅します。実の兄弟と再会したのに、すぐに「自分はあなた達の兄弟です」と打ち明けるのではなく、牢獄に兄弟たちを3日間も監禁しました。(42:17)また、わざと食糧の代金を受け取ってからこっそり返して兄弟を怖がらせたり、兄弟のひとりシメオンを皆の目の前で縛り上げて人質にしたり(42:23)、無理だとわかっていて、一番下の弟のベニヤミンを家族から奪って奴隷にしようとしたりします。

ヨセフの兄弟たちは恐怖で震え上がり、ヨセフのことを「御主人様、ご主君様」、自分たちのことは「僕(下僕)」と呼んでいます。

今日の聖書の場面でやっと「わたしはヨセフです。」と兄弟たちに打ち明けるのですが、兄弟たちは驚きのあまり声も出ません。ヨセフはエジプトの名前を使っていたしエジプト政府の権力者でしたので、羊飼いである兄弟たちは、まさか「ツァフェナト・パネア」が自分たちの弟だなんて思いもよらなかったでしょう。あまりの恐怖でこのような権力者が自分たちの弟だと気づく心の余裕などなかったかもしれません。

ヨセフの言動は、あとから彼が自分たちの弟だと知った兄たちにとっては彼らへの復讐と写ったことでしょう。兄たちは50章で父のヤコブが死んだあと、まだ、ヨセフに対して「私どもはあなたの僕です。」とひれ伏します。それほど、ヨセフは兄たちを恐怖に陥れたのです。

ヨセフが弟ベニヤミンと抱き合って泣き、さらに兄弟たちみんなにくちづけして泣いたあと、やっと、兄たちはヨセフと話すことができます。(45:14,15)

ヨセフと兄たちの再会、再び彼らの人間関係が始まった瞬間、それは決して心温まる和やかな雰囲気ではありませんでした。復讐と恐怖と驚きのいり混ざった喜びの瞬間、なんとも言いがたい苦い喜びの瞬間でした。



ところで、ヨセフは兄たちと再会してから、何度も泣いています。(42:24,43:30,45:2)ヨセフの涙には、どんな気持ちが込められていたのでしょうか。

自分の人生をある日突然奴隷生活に陥れた兄たちをゆるせない気持ち、激しく根強い復讐の心はあったでしょう。奴隷だった生活から権力者になり、エジプトで優雅な生活を送っているなかで、羊飼いとして遠くで暮らしている家族のことを自分から助けに行こうとは思わなかったことへの後悔もあったかもしれません。エジプト人からは見下されている羊飼いの一族出身の自分を捨てて、エジプトの王様に近いところで、ほとんどエジプト人として生きてきたことで、自分は何者なのかというアイデンティティに関する苦悩もしたでしょう。そして、やはりどんなに複雑で難しい感情があってもなお、実の兄弟と再会できたことへの喜びもあったにちがいありません。

答えはひとつではありません。聖書を読む時、私たちは近年、この聖書箇所はこういうことを言っている、この箇所はこのように解釈する、と紋切り型の答えを求めがちですが、私たちの実際の人生、生活が型どおりうまくいくわけではないのと同じで、聖書に出てくる人物と神さまとの関わりも、ひとつの正しい答えや方法があるというわけではありません。

今日読んだ45章の直前の44章では、ヨセフの兄の一人、ユダが勇気を出して「御主君様」であるヨセフ、エジプト名「ツァフェナト・パネア」の前に進み出、父親のヤコブがどれほど弟ベニヤミンのことを大事に思っているか、そして、弟のために自分が身代わりになってもいいと訴えています。この訴えに、ヨセフは相当心を打たれたことと思います。かつては、ヨセフを妬み、殺すつもりで穴に投げ込んだ兄弟が、「自分が奴隷になってもいい」というくらい弟を愛することのできる人になっていたのです。
ユダの、絶大な権力者であるヨセフ「ツァフェナト・パネア」の前での、父親と弟への愛を表す訴え。このユダの勇気に触発されて、ヨセフも自分が弟だと明かすことができたのでは、と私は思います。

兄弟として会うことがなかった長い期間の間に、兄たちの心は変わり、ヨセフの外見はすっかりエジプト人のようになっていました。再び心が結び合うには、このような期間、このような変化が、彼らにとって必要でした。



8月、日本では平和を覚える月です。私は、戦争を経験していない世代ですが、幼い頃から学校で、教会で、太平洋戦争の悲惨さと平和を維持することの大切さを学びました。私は2011年の9月から3年間、アメリカの神学校で学ぶ機会を与えられたのですが、初めてアメリカ中西部ミズーリ州セントルイスに降り立ったとき、こんなに広大な国によく日本は戦いを挑んだものだと不思議な気持ちになりました。

私が住んでいた場所は、ほとんどアジア系の人がいない場所でした。学校でも買い物に行っても、常に日本人は自分一人でした。日本では、日本にいた人たちが戦争中にどんなにひどい目にあったかということばかりを学びますが、韓国や中国から来ていた留学生、今なおガスや電気のない場所で暮らしている人がたくさんいるアフリカからの留学生を前にして、自分たちの国の被害のことばかりを語ったり、日本人として自省することなく、単純にアメリカの原爆投下だけを責めることなどは、何かちがうのではと感じました。

むしろ、日本国籍を持つ人間として、自分の国また日本の教会が犯してしまった間違いとも向き合い、誠実にさまざまな国の人達と向きあうことが最も大切だろうと思うようになりました。アメリカが日本に行った酷いことの反省は、アメリカの人の責任です。アメリカ人自身が、やることです。
同じく、日本が犯した間違いも日本人の責任です。

和解は、自分と自分が属する歴史や事柄に対して誠実に向きあうことから始まるのではないでしょうか。

ある時、アメリカの教会での実習において説教の中で「私は、日本人として前の世代の人たちがアジアの人たちに行ってしまったことに責任があります。」と言うことができました。これは、とても勇気のいることでした。前の世代の方々の選択を責める気持ちはまったくありません。けれども、日本の軍事作戦によって傷ついたアジア諸国の方々の傷は、私たち、日本人というアイデンティティを持つ人間が責任を持ち続けない限り、癒えることはないでしょう。



神さまは、私たちに必ず、和解の瞬間、すなわち再び向きあうことができる時を与えてくださいます。その時は、決して穏やかな美しい時間ではありません。とてもとても、難しい瞬間です。

ヨセフと兄たちは、長い時間をかけた変化と、復讐心と、恐怖心を乗り越え、お互いに、自分の姿と相手との関係に対して誠実であろうとする勇気を持つことができました。

自分が傷つくかもしれなくても、相手との関係において、ユダのように誰かを愛するために立ち上がること、ヨセフのように復讐心や後悔や複雑な感情と向き合い涙を流しつつ自分の姿を明らかにすること、これらが誠実さだと、私は思います。その誠実さを行うための勇気を与えてくださるのが神さまです。私たちは自分ひとりの力では誠実であり続ける勇気を持つのは難しいです。

再び結び合うことができる時、和解ができる時というのは、壊れた人間関係の中で、神さまの愛が溢れ出る時とも言えます。
その瞬間のために、神さまは、ヨセフ、兄たち、そして私たちに十分な勇気を与えてくださいます。一日ではもちろん足りないでしょうし、何年もかかるかもしれません。和解する相手にも、時間と勇気が必要ですが、私たちにはそれは知り得ません。

確かなことは、今、今日、この時に、神さまが私たちに、自分と向き合う勇気、
相手と向き合う勇気、愛し続ける勇気を与えてくださっているということです。

主の招く声が聞こえてくる ―「大丈夫。」勇敢に、前に進んでいきましょう!

Be brave! Go forward!


参考文献・資料
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2. Harold W. Attridge, The HarperCollins Study Bible NRSV, (HarperCollins Publishers, 2006)
3. Joel B. Green, The CEB Study Bible, (Common English Bible, 2013)
4. Adele Berlin and Marc Avi Brettler, Editors, Michael Fishbane, Consulting Editor, The Jewish Study Bible Jewish Publication Society TANAKH Translation, (Oxford University Press, 2004)
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10. John C. Holbert, Revenge is Sweet? Reflections on Genesis 45:1-15, (Opening The Old Testament August 11, 2014, http://www.patheos.com/Progressive-Christian/Revenge-is-Sweet-John-Holbert-08-11-2014.html, Accessed by August 15, 2014)
11. Cameron B.R. Howard, Commentary on Genesis 45:1-15, (Working Preacher Preach This Week, https://www.workingpreacher.org/preaching.aspx?commentary_id=2168, Accessed by August 15, 2014)
12. Kathryn Matthews Huey, United Church of Christ Sermon Seeds Focus Scripture: Genesis 45:1-15, (http://www.ucc.org/worship/samuel/august-17-2014.html, Accessed by August 15, 2014)
13. Mignon R. Jacobs, Journal for the Study of the Old Testament 27.3, The Conceptual Dynamics of Good and Evil in the Joseph Story: An Exegetical and Hermeneutical Inquiry, (The Continuum Publishing Group Ltd, 2003)
14. Daniel J. Simundson, Texts in Context Comfort and Challenge: Prophetic Preaching in Pentecost, (Word & World Volume XVI, Number 3, Summer 1996)


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礼拝に参加した小学生の子が撮ってくれました。





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