2015年8月15日土曜日

賢そうな自説?聖書をおとしめる批判??

日本基督教団正教師試験の提出論文のなかの、私の説教に対する「コメント(論評)」の一部の言葉がどうしても頭から離れず、とぐるぐる考えています。私が今まで3年間受けてきた神学教育は何だったのか、泣きながら英語を覚えて書き続けたレポートは何だったのか、神様が助けてくれなかったらここまで来れなかった人生は何だったのか、私の聖書釈義と説教の作り方が「聖書を批判していて、聖書をおとしめている」のだとしたら、もう語ることができないのではないか。

聖書を批判的に読むことを封じ込めたら、いったい何が釈義なんだろうか。

釈義:文章・語句などの意味を解きあかすこと。また、解きあかした内容。解釈。
大辞林 第三版)

意味を解き明かすために、文章の文脈の分析をしたり時代背景を考慮したり、、その文章が歴史的に与えてきた影響を考えること=批判的に文章を読むことは、聖書をおとしめることになるの??

この「解き明かした内容」は文章・語句などの意味と向かい合った人によって少しずつ異なるものではないだろうか?全員が全員、ほとんど同じで金太郎飴みたいな釈義、そこから生み出される説教っていうのがあるものなんだろうか?

どんな牧師にも、その人の言葉でなければ語ることができない説教がある。どんな牧師も平均的に同じような説教ができるなんてことは、あり得ない。それじゃあ、人間の仕事じゃない、機械の仕事になってしまう。

どこの教会に行っても語られる福音は同じかもしれない、でも、説教には色があり、呼吸があり、表現があり、生き様がある。

説教は、ただ、ヘブライ語やギリシャ語の意味を確認したり、日本のキリスト教業界の主流派に近い思想を持った人たちの本だけを参考にしたりして、お隣りの牧師たちと同じように作ればいいものではないでしょう?

私には私だけの生きてきた人生があって、その経験、喜び、悲しみ、痛み、嘆き、そして感謝から産まれてくる言葉がある。それらの言葉の背後には、いつも神様がいて、聖書がその神様の存在を言語化してくれる。聖書と一緒に生きてきた軌跡がなければ、牧師の説教の言葉たちは生み出されてこない。と私は思っている。

それを、「賢そうな自説」なんて言葉で表現されて、私はほんとに、けっこう深く傷ついているんだ、今、と思う。こんな言葉を述べた人たちは、私の経験してきたことのいったい何を知っているのだろう?


私に、日本の教会で働くための謙遜さが足りないのか。

私は、でたらめに自分の考えを説教の中で広めたいなんて一ミリも考えたことがない。説教の最後はいつもセレブレーション(祝典)・喜びであり、イエス・キリストの愛、希望、勇気が伝えられるものだと思っている。

説教の作成の過程は、聖書の伝える概念を時代と文化の限界の中にある私たち自身が理解しやすいように、翻訳し直すプロセスでもあると思う。

私の翻訳が、彼らにとっては「賢そうな自説」に見えたわけだ。


コメントを受け取って以来、どうしたら、謙遜に語れるのかを試行錯誤している。

でも、やはり、自分の言葉ではない言葉で語ることはできない。「聖書のヘブライ語やギリシャ語の解説」「注解書の切り貼り」「誰か(偉い・有名な)神学者の思想の紹介」「年の功による経験のひけらかし」は、私は説教じゃないと思っている。

自分を奪われるような言葉を以って説教をすることは、少なくとも私にとっては苦痛でしかない。

みんな、試験に受かるためにそうしてるんだから、という応援してくださっている皆さんからの励まし、嬉しくもありしんどくもあった。最終的にはそうしなければいけないのは理解しているけれど、同調圧力でもあると感じてしまう。とにかく目的が大事だから手段を選ぶなっていうのは、ちょっと乱暴じゃないのかなぁ…。


あなただけが不合格になっているわけじゃないよ、という過度の一般化に基づいた励ましに対しても、なんだかなぁ、と悩む。これまた、他の人たちもそうなんだから、という同質性の強調。

もちろん他の人も厳しいコメントや不合格通知をもらっているのだろう。でも、本当に、多くの人たちが(例えば受験生で不合格通知をもらった人たちの6〜7割とかが)「聖書をおとしめている、賢そうな自説を言っている」などというコメントをもらっているのだろうか?もらっているのだとしたら、私だけじゃないという励ましも納得がいく。けれど実際は何が起きているのか受験者同士の繋がりもないし、私には日本の神学校の同窓会繋がりもないし、わからないですよ。

私、個々人のバックグラウンドを無視して、他の人もそうだから、と言われるのがとても苦手。

だってね、きっと受験生の中で唯一私が Master of Divinity を取得している補教師だと思う。日本の神学修士は英語でなんというのか知らないけれど、アメリカの神学修士は3種類あって、牧師になるための修士は3年、座学と実習が半分ずつで神学論文は書かない(書く時間がない)、これが Master of Divinity (M.Div.)。ほかに、Master of Theological Studies (M.T.S.) と Master of Arts in Pastoral Studies (M.A.P.S.)がある。

私も行くまで知らなかった。今まで帰国してから出会った日本の牧師さんたちの中でこの3種類の修士のことを知ってる人はほぼいなかった。一人か二人くらい?かな??知ってたの。

やっぱり、私ってーそれが良い悪いとかではなくー受験生の中では特殊な経歴なんですよ。

私たちの合否を決める50代60代の日本の牧師さんたちと私では、受けた教育と持っている情報が、たぶん、あまりに違いすぎる。他の受験生の方が、私よりはどちらかと言えばその人たちの思想や立場やコネクションに近いでしょう。

こういう状況を一緒くたにしてほしくないんですよね。


少なくとも今は語らせてもらえる場があることに心から感謝をしつつ、教会外の友達からもよく言われてそのたびに悲しくなるんだけど、実際のところ、私は日本には適合しないのかもしれないなぁとも、思う。私が日本にいても迷惑なのかな。そして、日本にいたら「上の人たち」に潰されてしまうのかな、いつか。一般常識は身についているとは思ってますが。


神様が今後の私の人生をどのように計画してくださっているのかは知りようがないから、今は毎週頑張って語らせていただくことに集中しなければならないですね。日本の上の人たちからのお墨付きがなくても、その上の人をこえている存在が私を支えてくださっていることを信じて。

というわけで、エナジードリンク(笑)





2 件のコメント:

  1. 聖書を批判的に読むことも牧師の説教を批判的に聞くことも、共に大切だと思います。けれどどちらも日本のクリスチャンには馴染みのない行為みたいですね。

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    1. 日本のクリスチャンには、聖書の批判的な読み方も牧師の説教への批判的な聞き方も馴染みがない、おっしゃるとおりかもしれません。馴染みなくさせたのは上の世代のリーダーたちの責任ではないのかなぁ。。。

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