2014年10月6日月曜日

説教「奇跡のその先に」@日本キリスト教団土沢教会(2014.9.28)

「奇跡のその先に - God is at work.」

改訂共通聖書日課 A年
YEAR A –  THE 16TH SUNDAY AFTER PENTECOST, PROPER 21
2014年9月28日 於・日本基督教団土沢教会
聖書箇所 旧約聖書 創世記17章1−17節(新共同訳)


出エジプト記17章。出エジプト記は、全体で40章あります。

出エジプト記には、3つ大きなテーマがあります。1章から15章21節までの「出エジプト物語(exodus narrative)」15章22節から18 章までの「一時的居住の伝承(sojourn tradition)」、そして19章から24章が「シナイ山における出来事(Sinai Pericope)」です。25章以降40章までは細かい法の中身のことが書かれています。

今日のお話は15章22節から18章までの「一時的居住の伝承」つまり旅の途中の物語の最後のほうです。イスラエルの人々が、奴隷として暮らしていたエジプトを出発してしばらくたってからの場面です。

イスラエルの人たちは、神さまからの「住む場所を準備しているからエジプトから出なさい」という声に従いました。与えられた旅の計画によって、荒れた土地を歩いて移動していました。物語の前のほうの場面では、エジプトの王様や軍隊も出てきましたが、現在の場面は、エジプト王とエジプト軍から逃れてからの旅の途中です。

      

今日の箇所はとても短くて、わかりやすいといえばわかりやすいお話ですね。
皆さんは、今日の所を読んで、どんな場面を想像されますか?

「おっかしいなぁ。神さま、こっちに行けって言ったはずなんだけど。」

「エジプトから出てきて、神さまがこの道を行きなさいって言われたとおりに来てるはずだよね、私たち。」

「なんでここに飲み水がないの?」

「どうしてこんなところに来ちゃったの?」

「喉が渇いてしかたない。神さま、何してるんですか?」

「モーセ、ちょっと神さまに聞いてみてよ!」

私には、こんな、イスラエルの人々の声が聞こえてきます。

      

17章の1節、新共同訳聖書では「イスラエルの人々の共同体全体」と書いてあります。アメリカの主流派の牧師・神学者が使うNew Revised Standard Version という英語訳の聖書では、「congregation」という言葉が使われています。

このcongregation という英単語、現代の「教会」「教会員の皆さん」のことを表すときにも使う単語です。英和辞典には「礼拝に集まる教会の信者たち; 特定の教会に通う信徒全体」「the ~イスラエル人、ユダヤ民族」(ウィズダム英和辞典)とあります。

私たちキリスト教会に集まる者がこの箇所を読むとき、イスラエルの人々が教会に集まっている皆さんで、モーセがリーダシップをとる指導者である牧師、そして神さまという風にこの3者の関係を考えてみることができると思います。

      

さて、3者の関係を考えてみる前に、小さい頃に私が経験した聖書の読み方のことを少しお話させてください。

大学生までの私だったら、今日の聖書の話にはこういう印象を受けたと思います。

ああ、私たちって指導者であるモーセに不平不満を言ったり、神さまにも困ったやつだと思われるような人間なんだな。神さまはやさしいから、イスラエルの人たちのように神さまを試したり、モーセに不平を言う罪深い人間を助けてくれるけど、本当は不平を言わないようにしなくちゃいけない。イスラエルの人たちは悪い見本なんだ。神さまを試したりしちゃいけないんだ。この物語は、イスラエルの人たちの信仰の薄さを示しているんだな。モーセも困ってるし。

こんな印象、読み方のパターンが、私に植えつけられた聖書の読み方、聖書のおはなしの受けとめ方です。私は、クリスチャンの母に連れられて、物心ついた頃から教会に通っていました。私の育った教会では、いつもこのような流れの説教を聞いていたし、教会学校での学びもこんな風でした。母に買い与えられて読んだ聖書漫画も、そんな感じの描写でした。

モーセの困り果てた顔。聞き分けの悪そうなイスラエルの人たち、やれやれしょうがないなぁという感じの神さまの雰囲気。

植えつけられた考え方というのは、なかなか抜けないものです。
今でこそ、こういう「聖書の受け止め方」「読み方」が唯一の正しい答えではないと考えることができますが、幼い頃から教えられ続けた「人間の罪深さ」「罪と罰」「罪とゆるし」という視点でのみ聖書を読むという読み方は、私の中からなかなか抜けてはくれません。

皆さんは、いかがでしょうか?

      

このような読み方が間違いであるというわけではありません。
しかし、今日はもう一歩か二歩くらい引いて、この物語を眺めてみたいのです。

イスラエルの人たちは不平ばかり言って「罪深い」人たちだったのでしょうか?
モーセはこの人たちの「信仰の薄さ」を持て余していたのでしょうか?
「恵み深い神さま」と「罪深いイスラエル」という関係だけが、重要なのでしょうか?

      

15章から、イスラエルの人たちは「不平」を言い始めます。マラという場所では、水が苦くて飲むことができなかったので「何を飲んだらよいのか。」と訴えます。16章では空腹のゆえに、「エジプトの国にいれば肉もパンもいっぱい食べられたのに。」と嘆きます。そのたびに、指導者であるモーセはイスラエルの人々を叱りつけるように言います。「なぜ不平を述べるのか。」と。

神さまはどうでしょうか。そんなイスラエルの人たちとモーセに、どんなふうに関わっているでしょうか。

15章で、神さまは苦かった水をすぐ甘い水に変えるようにモーセに指示します。16章では、「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。」と言って、不思議なやり方で、毎日食べ物を送ってくれます。

そして、今日の場面でも、イスラエルの人々の代表者である長老の目の前で奇跡を起こします。指導者のモーセだけでなく、イスラエルの民もわかる解決のしかたをしてくれます。しかも、すぐに。

注意したいのは、神さまは別に、人々に対して怒っていないということです。


指導者であるモーセだけが、イライラして、「この民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています。」と神さまに訴えます。いや、よく読んでみましょう。人々は「喉が渇いた、水をくれ〜」と言っているだけで、モーセを石で打ち殺すなんて言っていません。

この物語には、平行箇所というのがあります。同じような内容で別バージョンのお話が聖書の別の場所に書かれているのです。それは、この箇所の場合、民数記20章2節から13節です。(新共同訳聖書、旧約247ページ)

民数記20章12節では、神さまが指導者であるモーセとこの場合はモーセの兄弟アロンに対しても、怒っているような感じです。「あなたたち(=モーセとアロン)はわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数記20章12節)と。


神さまがイスラエルの人たちに与えてくださっている助け、しかも迅速な助けと指導者への指示に注目すると、指導者モーセのフラストレーションのほうがむしろ不信仰だったようにも、思えます。

イスラエルの人たちは、今回のお話以前の15章16章での2回の経験を経て、神さまが助けてくれるのを信じて、見越して、不平を訴えていたのかもしれません。それに対して、指導者のモーセは、人々の訴えをそのまま神さまに伝えるのではなく、自分のフラストレーションをぶつけます。

モーセの態度は、教会においては指導者である牧師へ、注意をうながすものでしょう。自分は神さまの側にいると勘違いしてしまい、「この不平を言う困った人たちをどうしたものか」と悩む傲慢に陥ってしまう。

私自身を含め、牧師は、congregation 教会の皆さんに仕えていく者としてモーセの姿を反面教師にしなければなりません。

      

ところで、今回の聖書箇所の注解を、アメリカ合同教会の公式ホームページで読むことができます。バージニア州アーリントンにあるロック・スプリング教会の副牧師で、それ以前は合同教会の本部で働いていたRev. Mark J. Suriano 牧師は、注解で、イスラエルの人人、モーセ、神さまの関係について興味深い指摘をしています。

イスラエルの人々は430年にも及ぶエジプトでの生活を経験しました。(出エジプト記12章40節)後半はずっと奴隷だった生活で人々は、奴隷アイデンティティを身につけてしまった。奴隷だった現実に慣れすぎてしまって、自分たちを、「奴隷だった民」と見なすことからなかなか抜け出せない。

この17章の場面で、イスラエルの人々は、自分たちは「もはや奴隷ではない民」アイデンティティを学ぶプロセスにある、とMark牧師は解釈します。

この指摘を考慮に入れて今日のお話を考えると、イスラエルの人たちが、神さまに積極的に不平を言っているのは、間違いでも悪いことでもなく、「奴隷だった民アイデンティティ」からの解放の大切なプロセスなのです。

      

今まで彼らのそばにいたのは、エジプトの王様でした。王様に対して不平なんて言ったら力で抑圧されてきました。でも、この神さまは、自分たちを守り、愛し、自分たちの声を聞いてくださる。


苦い水が出て不平を言った時も、食べるものがなくて不平を言った時も、再度、水がなくて不平を言った時も、ちゃんと神さまはその不平に応えてくれました。奇跡の出来事は、イスラエルの人々にとって「私たちの上にいる王と私たち、奴隷」の関係ではなく、「私たちのそばにいる神さまと私たち」という信頼関係を築くプロセスでした。

現代の私たちにも、この出エジプト物語の機会は与えられています。

そのプロセスでは、不平を言ってもいいのです。人々の訴えは間違っていませんでした。この出来事が「マサ(試し、Test)」「メリバ(争い、Quarrel)」として記録されているのは、そのテストと不平をいう時間が必要だったと、出エジプト記の著者が考えたからではないでしょうか。

      

最後に、
「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(7節)
という問いについて考えてみます。

この問いを読んだ時にすぐに思い出したのは、東日本大震災後のボランティア活動の時のことです。私はアメリカの神学校へ入学する前、仙台で震災を経験し、震災が起きてまもなくその働きを始めた日本キリスト教団東北教区の被災者支援センターの立ち上げに関わりました。

県外からくるボランティアさん、ほとんどは一度も教会に行ったこともない皆さんを受け入れるコーディネーターのような仕事をしました。教会を宿泊先にしてもらい、その宿泊の手配をしたり、仕事を割り振ったり、滞在中の食事や生活のお世話を整えたり、などです。被災地現場でのお掃除の仕事も、もちろん一緒にしました。

いつも仕事の後に、シェアリングという時間を持っていました。それは自由参加だったのですが、好評で、多くのボランティアさんが参加していました。

私がそのシェアリングタイムにたまたま参加した時、両親がクリスチャンで仙台に住んでおり、自分は東京の方の大学で哲学を学んでいる20代前半の若者が、クリスチャンの人たちに特に問いたいと言って、こんなことを言いました。

「こんなにひどい出来事が起きて、その時、神は何をしてたんでしょうか。キリスト教を信じている人たちは、神はどうしていたと思いますか。」


ショックでした。その時の私にとっては、その問いは神さまへの冒涜のようにも聞こえた一方で、私自身の心の深い部分でもずっと問うていた問いでした。

そのグループに私を含めクリスチャンは3人いました。
県外からボランティアに来ていた中年の男性牧師が、創世記の解き明かしを始めました。もう一人の、信徒さんは、なにか別のことを言いました。私の番に回ってきた時、なんと答えたかよく覚えていませんが、「すごく重すぎる問いで、まだわからない。」と答えたような気がします。

命の危機が迫った時、実際に命が奪われる出来事が起きたとき、「神さまどこにいるのでしょうか?」「なぜこんなことが?」と問わない人はいません。それは、キリスト教徒であるとか仏教徒であるとか、無宗教だとか、関係なく、だと思います。

      

イスラエルの人々は、40年も荒野をさまよったと出エジプト記に書かれています。
歴史的には、出エジプトという出来事が実際にあったとは言いがたいようです。しかし、重要なのはそれが事実だったかどうかよりも、イスラエルの共同体が神さまと信頼関係を築くことができるようになるまでそれほどの時間がかかり、様々な奇跡の出来事が起きた物語が何千年も伝えられているということです。

その40年の間に、奇跡を経験せずに亡くなった人たちもいたことでしょう。
それでも、彼らは奇跡の出来事を記録に残しました。


「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(7節)
「私たちがあんなに辛かった時に、神さまは、どこにいたのか。」


「おっかしいなぁ。神さま、こっちに行けって言ったはずなんだけど。」

「エジプトから出てきて、神さまがこの道を行きなさいって言われたとおりに来てるはずだよね、私たち。」

「なんでここに飲み水がないの?」

「どうしてこんなところに来ちゃったの?」

「喉が渇いてしかたない。神さま、何してるんですか?」

「モーセ、ちょっと神さまに聞いてみてよ!」

イスラエルの人たちのように不平不満を正直に神さまに訴えるプロセスの中でこそ、私たちは神さまとの信頼関係に近づくことができます。


神は私たちの間にいる。私たちを、助けてくれる。
私たちの間で、働いている。

      

英語でいえば、God is at work. この表現がとても好きなんです。God is at work. 
At work. 執務中で、仕事に出て、就業して、就労して、従事して、出勤して、活動中で、現役で、という意味です。

イスラエルの人々が旅をしていた時も、私たちが生きている今日も、明日も、神は at work です。だから、今週も、奇跡は起こります。私たちには想像もつかない方法で。

いつも思い出してください。

上にいる王様のような立場の人たちを怖がらなくていい。私たちは奴隷じゃない。
自由に、正直に、不平を言っていい。不平を聞いてくれる神さまを信頼していい。

God is at work. 
神は at work. です。

      

無断転載、コピーはしないでくださいませ。内容に関する感想、質問などは、お気軽にどうぞ。



      


参考文献・資料

  1. 日本聖書協会『聖書 新共同訳旧約聖書続編付き』
  2. Harold W. Attridge, The HarperCollins Study Bible NRSV, (HarperCollins Publishers, 2006)
  3. Joel B. Green, The CEB Study Bible, (Common English Bible, 2013)
  4. Adele Berlin and Marc Avi Brettler, Editors, Michael Fishbane, Consulting Editor, The Jewish Study Bible Jewish Publication Society TANAKH Translation, (Oxford University Press, 2004)
  5. Terence E. Fretheim, The Pentateuch, (Abingdon Press, 1996)
  6. Mark Allan Powell, The HarperCollins Bible Dictionary, (HarperCollins Publishers, 2009)
  7. Walter Brueggemann, Introduction to the Old Testament The Canon and Christian Imagination, (Westminster John Knox Press, 2003)
  8. Kathryn Matthews Huey, United Church of Christ Sermon Seeds Focus Scripture: Exodus 17:1-7, (http://www.ucc.org/worship/samuel/october-5-2014.html, Accessed by September 25, 2014)
  9. John C. Holbert, Opening The Old Testament The Continual Need for a Sign: Reflections on Exodus 17:1-7, (http://www.patheos.com//Progressive-Christian/Continual-Need-John-Holbert-03-14-2014.html, Accessed by September 25)
  10. Juliana Claassens, Working Preacher Preaching This Week Commentary on Exodus 17:1-7, (https://www.workingpreacher.org/preaching.aspx?commentary_id=1975, Accessed by September 25)
  11. Nancy deClaissé-Walford, Working Preacher Preaching This Week Commentary on Exodus 17:1-7, (https://www.workingpreacher.org/preaching.aspx?commentary_id=160, Accessed by September 25)




説教前日は、ラーメン!ゴマ担々麺でした。

そして説教後の豪華なお食事

皆さんで歌の練習も。

とってもいい天気でした。

可愛らしい入り口ですねー!





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