説教「再び結び合う時」@日本キリスト教団内丸教会(2014.8.17)

「再び結び合う時」

改訂共通聖書日課 A年 年間第10日曜日
2014年8月17日 於・日本基督教団内丸教会
聖書箇所 旧約聖書 創世記45章1−15節(新共同訳)


今日のお話には、ヨセフというエジプトに住んでいる男性、ヨセフの10人の兄たち、ヨセフのひとりの弟が出てきます。なにやら、感動的な場面のようです。最後のほうで、ヨセフと弟のベニヤミンは抱き合って涙を流しています。

一体この兄弟に何があったのでしょうか?
兄弟げんかでもしていたのでしょうか?

今日読んだ聖書の箇所は、旧約聖書の一番はじめにある書物、創世記(創世記は50章あります。)その中の45章です。創世記には、イスラエル民族という人たちの家族の物語と、家系図が主に書かれています。この45章は、37章から始まる(50章で終わる)ヨセフという人が中心になる物語の最後のほうです。

ヨセフの父親ヤコブは、まだ弟のベニヤミンが生まれていない頃、末っ子のヨセフを特に可愛がったので、兄たちはヨセフのことをあまり好きではありませんでした。ヨセフは一人だけ「裾の長い晴れ着」を父からもらって着ていました。この言葉、英語では伝統的にたくさんの色がついたカラフルな上着と(a coat of many colors)と訳されてきました。サムエル記下13章18節でタマルという王女さまが着ているような服でした。

ある日、ヨセフは夢で兄たちの畑の収穫の束が自分の束にひれ伏す夢を見ました。別の夢では、太陽と月と11の星が自分にひれ伏す夢を見ました。それをそのまま兄と父親に話しました。兄さんたちは、当然、怒り心頭でした。(37:1−11)

王女さまが着るような服を着ていたということは、ヨセフは外で兄さんたちがするような羊飼いの仕事をしていなかったようです。外に出ていって、羊に餌をやったり水をやったり、世話をする仕事は王女さま服を着ていたのではできません。

父親のヤコブはある日、ヨセフに、遠くに仕事に出ている兄さんたちの様子を見てきなさいとお使いを頼みました。ヨセフが兄さんたちの様子を見に行くと、ろくに男の仕事をしていないヨセフがやってきたのを見て、兄さんたちはヨセフを穴に投げ込んでしまいました。一番上のルベンが、あとからヨセフを助けようとしたのですが、その前に、ヨセフは通りかかった商人につかまえられて、エジプトに連れて行かれて、奴隷として売られてしまいました。(37:12−36)

ヨセフは、その後エジプトでいろんなことがあり、王様に国じゅうの食糧を管理する仕事を任されました。王様の次に偉いくらいの地位についたのです。もう、パッと見ただけでは羊飼いの一族出身には見えなくなりました。王様から、エジプト風の名前「ツァフェナト・パネア」という名前をもらって、エジプト人の妻ももらいました。(41:45)エジプトの国で、ツァフェナト・パネアを知らない人はいないくらい有名な、権力のある人になりました。

ヨセフは、兄弟に妬まれたため遠い国に売られてしまいましたが、今では、食べ物にも困らない、立派な服と家もある、エジプトの中でも特にリッチな、羊飼いの家族と比べものにならないくらい裕福な暮らしをすることになったのです。

以上が今日の場面の背景です。そんなヨセフと兄弟が、奇跡的に再会しました。ヨセフの兄弟たちは、世界中に食糧不足が起きたために、食糧をもらいにエジプトまで旅してきたのです。



今日の聖書箇所では、7節から9節で「神が」という言葉が3回出てきて強調されています。教会では、ヨセフと兄弟たちの物語の中で示されている「神の摂理」の素晴らしさをたたえてきました。ヨセフが経験した悪い出来事を神さまが良いことに変えてくださった。ヨセフや兄弟たちの思いや行動、人間の力をこえて、神さまが働いてくださった。人間には知り得ない「神の摂理」です。ヨセフがエジプトで権力のある地位についたおかげで、ヨセフの元々の家族、イスラエルの一族が食糧不足の中生き延びることができたのは、神さまのおかげです。

神の摂理、つまり神は私たちの想像をこえたところで悪しきものを良きものにしてくださる、神の支配は偉大であるというこの物語への見方は、ある意味安心ではありますが、これはとても注意しなければならないことでもあります。牧師やキリスト者が、苦難の中にある人たちに向かって「その悪い出来事は必要なことですよ。神さまはその悪いことを良いことにしてくれます。」などと簡単に言ってしまうことがあるからです。そのような「神の摂理」の押し付けは、イエス・キリストが教える愛ではありません。

今日は、ヨセフとお兄さんたちの関係のあり方、兄弟の和解のプロセスの中で、神さまの愛がどのように私たちに働くのかということに注目してみたいと思います。



ヨセフと兄たちのような壊れた人間関係は、創世記において珍しいものではありません。4章で兄のカインが弟のアベルを殺してしまったことから始まり、創世記には、人間関係の衝突、争いは大きなものだけで、10ちかくもあります。

ノアの息子たち(9:20−27),アブラハムとロト(13:1−18),サラとハガル(16:1−16),イサクとイシュマエル(21:8−21),ヤコブとラケル(30:1−4),ラケルとレア(30:14−16),ヤコブとラバン(31:1−55),ヤコブとエサウ(25−36),タマルとユダ(38),ヨセフと兄弟(37;39−50)
ディナとシケム、シメオンとレビ(34:1−31)

イエスは、先日の聖書研究祈祷会で学んだ新約聖書マタイによる福音書5章において、復讐してはならない、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言っています。

ここでのヨセフはどうでしょうか。食糧危機にあった多くの国のため、立派に食糧を管理して分け合う素晴らしい人物、奴隷として売られてもへこたれないで王様の次の地位にまでのぼりつめた頑張り屋さんのように評価されるヨセフですが、彼は兄たちに対して根強い復讐心をいだいていたのではないかと思います。

弟ベニヤミンと兄たちが、食糧がなくて困って、はるばるエジプトまでたどり着いたとき、ヨセフはすぐに彼らが自分の兄弟だと気づきました。

ヨセフは、兄たちと弟が自分に気づかないのをいいことに、彼らを脅します。実の兄弟と再会したのに、すぐに「自分はあなた達の兄弟です」と打ち明けるのではなく、牢獄に兄弟たちを3日間も監禁しました。(42:17)また、わざと食糧の代金を受け取ってからこっそり返して兄弟を怖がらせたり、兄弟のひとりシメオンを皆の目の前で縛り上げて人質にしたり(42:23)、無理だとわかっていて、一番下の弟のベニヤミンを家族から奪って奴隷にしようとしたりします。

ヨセフの兄弟たちは恐怖で震え上がり、ヨセフのことを「御主人様、ご主君様」、自分たちのことは「僕(下僕)」と呼んでいます。

今日の聖書の場面でやっと「わたしはヨセフです。」と兄弟たちに打ち明けるのですが、兄弟たちは驚きのあまり声も出ません。ヨセフはエジプトの名前を使っていたしエジプト政府の権力者でしたので、羊飼いである兄弟たちは、まさか「ツァフェナト・パネア」が自分たちの弟だなんて思いもよらなかったでしょう。あまりの恐怖でこのような権力者が自分たちの弟だと気づく心の余裕などなかったかもしれません。

ヨセフの言動は、あとから彼が自分たちの弟だと知った兄たちにとっては彼らへの復讐と写ったことでしょう。兄たちは50章で父のヤコブが死んだあと、まだ、ヨセフに対して「私どもはあなたの僕です。」とひれ伏します。それほど、ヨセフは兄たちを恐怖に陥れたのです。

ヨセフが弟ベニヤミンと抱き合って泣き、さらに兄弟たちみんなにくちづけして泣いたあと、やっと、兄たちはヨセフと話すことができます。(45:14,15)

ヨセフと兄たちの再会、再び彼らの人間関係が始まった瞬間、それは決して心温まる和やかな雰囲気ではありませんでした。復讐と恐怖と驚きのいり混ざった喜びの瞬間、なんとも言いがたい苦い喜びの瞬間でした。



ところで、ヨセフは兄たちと再会してから、何度も泣いています。(42:24,43:30,45:2)ヨセフの涙には、どんな気持ちが込められていたのでしょうか。

自分の人生をある日突然奴隷生活に陥れた兄たちをゆるせない気持ち、激しく根強い復讐の心はあったでしょう。奴隷だった生活から権力者になり、エジプトで優雅な生活を送っているなかで、羊飼いとして遠くで暮らしている家族のことを自分から助けに行こうとは思わなかったことへの後悔もあったかもしれません。エジプト人からは見下されている羊飼いの一族出身の自分を捨てて、エジプトの王様に近いところで、ほとんどエジプト人として生きてきたことで、自分は何者なのかというアイデンティティに関する苦悩もしたでしょう。そして、やはりどんなに複雑で難しい感情があってもなお、実の兄弟と再会できたことへの喜びもあったにちがいありません。

答えはひとつではありません。聖書を読む時、私たちは近年、この聖書箇所はこういうことを言っている、この箇所はこのように解釈する、と紋切り型の答えを求めがちですが、私たちの実際の人生、生活が型どおりうまくいくわけではないのと同じで、聖書に出てくる人物と神さまとの関わりも、ひとつの正しい答えや方法があるというわけではありません。

今日読んだ45章の直前の44章では、ヨセフの兄の一人、ユダが勇気を出して「御主君様」であるヨセフ、エジプト名「ツァフェナト・パネア」の前に進み出、父親のヤコブがどれほど弟ベニヤミンのことを大事に思っているか、そして、弟のために自分が身代わりになってもいいと訴えています。この訴えに、ヨセフは相当心を打たれたことと思います。かつては、ヨセフを妬み、殺すつもりで穴に投げ込んだ兄弟が、「自分が奴隷になってもいい」というくらい弟を愛することのできる人になっていたのです。
ユダの、絶大な権力者であるヨセフ「ツァフェナト・パネア」の前での、父親と弟への愛を表す訴え。このユダの勇気に触発されて、ヨセフも自分が弟だと明かすことができたのでは、と私は思います。

兄弟として会うことがなかった長い期間の間に、兄たちの心は変わり、ヨセフの外見はすっかりエジプト人のようになっていました。再び心が結び合うには、このような期間、このような変化が、彼らにとって必要でした。



8月、日本では平和を覚える月です。私は、戦争を経験していない世代ですが、幼い頃から学校で、教会で、太平洋戦争の悲惨さと平和を維持することの大切さを学びました。私は2011年の9月から3年間、アメリカの神学校で学ぶ機会を与えられたのですが、初めてアメリカ中西部ミズーリ州セントルイスに降り立ったとき、こんなに広大な国によく日本は戦いを挑んだものだと不思議な気持ちになりました。

私が住んでいた場所は、ほとんどアジア系の人がいない場所でした。学校でも買い物に行っても、常に日本人は自分一人でした。日本では、日本にいた人たちが戦争中にどんなにひどい目にあったかということばかりを学びますが、韓国や中国から来ていた留学生、今なおガスや電気のない場所で暮らしている人がたくさんいるアフリカからの留学生を前にして、自分たちの国の被害のことばかりを語ったり、日本人として自省することなく、単純にアメリカの原爆投下だけを責めることなどは、何かちがうのではと感じました。

むしろ、日本国籍を持つ人間として、自分の国また日本の教会が犯してしまった間違いとも向き合い、誠実にさまざまな国の人達と向きあうことが最も大切だろうと思うようになりました。アメリカが日本に行った酷いことの反省は、アメリカの人の責任です。アメリカ人自身が、やることです。
同じく、日本が犯した間違いも日本人の責任です。

和解は、自分と自分が属する歴史や事柄に対して誠実に向きあうことから始まるのではないでしょうか。

ある時、アメリカの教会での実習において説教の中で「私は、日本人として前の世代の人たちがアジアの人たちに行ってしまったことに責任があります。」と言うことができました。これは、とても勇気のいることでした。前の世代の方々の選択を責める気持ちはまったくありません。けれども、日本の軍事作戦によって傷ついたアジア諸国の方々の傷は、私たち、日本人というアイデンティティを持つ人間が責任を持ち続けない限り、癒えることはないでしょう。



神さまは、私たちに必ず、和解の瞬間、すなわち再び向きあうことができる時を与えてくださいます。その時は、決して穏やかな美しい時間ではありません。とてもとても、難しい瞬間です。

ヨセフと兄たちは、長い時間をかけた変化と、復讐心と、恐怖心を乗り越え、お互いに、自分の姿と相手との関係に対して誠実であろうとする勇気を持つことができました。

自分が傷つくかもしれなくても、相手との関係において、ユダのように誰かを愛するために立ち上がること、ヨセフのように復讐心や後悔や複雑な感情と向き合い涙を流しつつ自分の姿を明らかにすること、これらが誠実さだと、私は思います。その誠実さを行うための勇気を与えてくださるのが神さまです。私たちは自分ひとりの力では誠実であり続ける勇気を持つのは難しいです。

再び結び合うことができる時、和解ができる時というのは、壊れた人間関係の中で、神さまの愛が溢れ出る時とも言えます。
その瞬間のために、神さまは、ヨセフ、兄たち、そして私たちに十分な勇気を与えてくださいます。一日ではもちろん足りないでしょうし、何年もかかるかもしれません。和解する相手にも、時間と勇気が必要ですが、私たちにはそれは知り得ません。

確かなことは、今、今日、この時に、神さまが私たちに、自分と向き合う勇気、
相手と向き合う勇気、愛し続ける勇気を与えてくださっているということです。

主の招く声が聞こえてくる ―「大丈夫。」勇敢に、前に進んでいきましょう!

Be brave! Go forward!


参考文献・資料
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2. Harold W. Attridge, The HarperCollins Study Bible NRSV, (HarperCollins Publishers, 2006)
3. Joel B. Green, The CEB Study Bible, (Common English Bible, 2013)
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6. Mark Allan Powell, The HarperCollins Bible Dictionary, (HarperCollins Publishers, 2009)
7. Olive Elaine Hinnant, God Comes Out A Queer Homiletic, (The Pilgrim Press, 2007)
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13. Mignon R. Jacobs, Journal for the Study of the Old Testament 27.3, The Conceptual Dynamics of Good and Evil in the Joseph Story: An Exegetical and Hermeneutical Inquiry, (The Continuum Publishing Group Ltd, 2003)
14. Daniel J. Simundson, Texts in Context Comfort and Challenge: Prophetic Preaching in Pentecost, (Word & World Volume XVI, Number 3, Summer 1996)


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礼拝に参加した小学生の子が撮ってくれました。





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