2014年10月6日月曜日

説教「賢さを授かって」@日本キリスト教団釜石教会(2014.10.5)

「賢さを授かって」
God’s wisdom for the people

改訂共通聖書日課 A年
YEAR A –  THE 17TH SUNDAY AFTER PENTECOST, PROPER 22
2014年10月2日 於・日本基督教団釜石教会
聖書箇所 旧約聖書 創世記20章1-4, 7-10, 12-20節(新共同訳)

                              


今日の箇所は、教会に長く通っている方々にとってはすでに何度か読まれたことのある箇所だと思います。日本語で「十戒」とタイトルが付けられている聖書箇所です。

私は英語で神学をしてきたばかりなので、英語も一緒にお話させていただくことをおゆるしください。英語ではTen Commandmentsといいます。コマンドという動詞は「命令する」という意味がありますので、コマンドメントは、十の命令というニュアンスも感じ取れます。

もうひとつ、The Decalogue(デカローグ)という英単語もあります。ギリシャ語とラテン語で、「deca(デカ)」は、単語のはじめにつく部分(接頭辞)で10、あるいは10の1セットというような意味。ローグは、新約聖書のヨハネ福音書の最初のほうでよく出てくる、ロゴスと同じ語源ですので、言葉、しかもこの場合は「話された言葉」という意味です。

旧約聖書の元の言語であるヘブライ語では、このデカローグに近い言葉が十戒のタイトルとして使われています。つまり、「十の戒め・戒律」や「十の命令」という言い方よりは、ten words (utterances)「十の話された言葉」が、一番、もとの言語ヘブライ語でのタイトルに近い意味合いです。


                              


神さまが、人々に、語った「十の言葉」は、出エジプト記の中で、指導者であるモーセを通じてではなくて直接、神さまから人々に語られた唯一の言葉たちです。

人々というのは、エジプトで400年近く奴隷生活を送っていたイスラエルの民と呼ばれる人たちです。この人たちは、エジプトから出発して旅をしています。


旅の道すがら、この人たちは自問します。
「自分たちは何者なのか?」
「自分たちを奴隷生活から解放すると言ってくれた存在は何者なのか?」
「たびたび遭遇する飢えや渇きから自分たちを助けてくれる存在とは何者なのか?」

現代の私たちが聖書を読むと、この人たちは「イスラエルの民」で「神さま」が彼らを助けてくれている。とわかります。しかし、出エジプト ― エジプトから脱出してエジプト王の支配から逃れる旅の出来事が起こっている最中の人たちには、自分たちは一体なぜ旅をすることになったのか、一体誰が自分たちに話しかけているのか、などというのはわかりません。

ある人にとって、ある共同体にとって、危機的な事件が起きたとき、その最中にあるとき、それは、あとからこうだったとは言えても、その時は「なぜこれが起きたのか?」というのはわからないものです。いや、あとから考えてももしかしたら、完全にはわからないものかもしれません。

また、ある事件によって、個人のアイデンティティや人との関係も、良くも悪くも、変わります。あの事件が起きる前と起きたあとでは私はちがう、という経験は、皆さんにもあるのではないでしょうか。


先日起きた御嶽山の噴火しかり、
神戸での小学校女児殺害事件しかし、
北海道での女子高校生による祖母と母の殺害、

遠く西アフリカ諸国でのエボラ出血熱、
中東での終わりの見えない紛争、
私の住んでいたアメリカ、ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官による黒人少年の射殺事件、

そして、
新生釜石教会の皆さんが特に、
決して忘れることができないであろう東日本大震災しかり、です。

「私たちは何者なのでしょう?」
「わたしたちにとって神とは何なのでしょう?」
「神はわたしたちに、何を語りかけているのでしょうか?」


                              


ところで、
Bible-beating、Bible-beater という英語があります。ちょっと特殊な言葉です。

Beating, beaterのビートは、打楽器を叩くような時に使う「連続して激しく打つ」という意味です。Bible-beating というのは、聖書でもって人を連打するという意味です。そのようなことをする人がBible-beaterです。

つまり、いい意味で使われる言葉ではありません。「聖書はこう言っている」「聖書にこう書いてある」と言って、絶対に曲げない自分の主張を相手に押し付けて相手を叩きのめすことを、Bible-beatingというのです。

アメリカでは、十戒や十戒に続く出エジプト記、レビ記の律法の詳細な決まりの部分がこのBible-beatingに用いられることが多くあります。十戒は、「私たちの人生にとっての処方箋のようなものであり、人生の取扱説明書のようなものである。神さまが私たちのことを思ってくださった決まりなんだから、絶対に、一字一句正確に守らなければならない!」

私自身もそんな風に、小さいころの教会生活で学びました。



皆さんは、いかがでしょうか。
今までどんな風に、十戒についての説教や聖書の勉強を経験しましたか。
十戒のすべてを守れる人はいると思いますか。

現代社会では、安息日を守ることはかなり難しいです。アメリカの神学校に行く前、私は両親が離婚しましたし、いろいろな事情があってアルバイトをかけ持ちしていました。一人暮らしの生活を維持するためには、日曜祝日も関係なく3つも仕事をしなければなりませんでした。しかし、それでも、収入は正社員の月給以下でした。

盗んではならない。は、どうでしょうか。私たち日本という国、は世界中から食糧を輸入しています。食べられない人たちもいるのに、その人たちへの配分を考えることなく、大量の食料を毎日消費しています。これが共同体全体としての盗み行為ではないと果たして言いきれるでしょうか。

一生のうちに、誰かのものを欲しいなと思わない人もいないでしょう。嘘をつかない人もいません。殺人や、姦淫も、さまざまな環境が重なれば、絶対に犯さないなんて言える人はいないはずです。

聖書の「戒め」「戒律」と真剣に向き合おうとすればするほど、なんだか気持ちが暗くなってしまうような気がしてきます。

18節には「雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ」た。とあります。厳しい「戒律」に加えて、この様子、まさに噴火が起きたかのような状況を目撃したら、それは、恐ろしいですよね。


                              


では、十戒って結局なんなのでしょうか。

「十の戒律」「十戒」というのは、ひとつの解釈です。この言葉そのものが与えてきたイメージは小さくありません。神から人へトップダウンにくだされた決して破ってはいけない命令というイメージですね。しかし、こういう「十の戒律」という解釈に縛られる必要はないのです。

冒頭で申し上げたとおり、一番もとの言語に近いのは「十の話された言葉」です。
私は、それに近いなるべく形で「神さまからの十の語りかけ」と表現したいと思います。

今日は十の言葉のすべてをじっくり見ていくことはできませんので、ユダヤ教が第一番目と定めている言葉にだけ注目してみます。
というのも、ユダヤ教、アウグスティヌス、カトリック、正教会、ルター、カルヴァンによって、十の言葉への番号の振り方がちがうのです。その細かい違いについては、また別の機会があれば、お話できたらと思います。


ユダヤ教では「神さまからの十の語りかけ」の第一番目は、2節の
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」だけです。

これは、さきほどの、
「私たちは何者なのでしょう?」
「わたしたちにとって神とは何なのでしょう?」
「神はわたしたちに、何を語りかけているのでしょうか?」
という問いへの力強い答えです。


「私たちは何者なのでしょう?」

  あなたたちは、わたしが、奴隷の家=bondage とも訳されています。「束縛、囚われの身」という意味です。奴隷のような状態、束縛から導き出した自由な人々です。


「わたしたちにとって神とはなんなのでしょう?」

  わたしは主、あなたの神。もはや、エジプトの王があなたを支配するのではない、また、周囲にいる民族の神々が、あなたの神でもない。人間の欲望、金銭、権力も神々ではない。十戒の「文字」が神なのではない。わたしが ― あなたを苦しみから解放し続けるわたしが、神なのです。


「神はわたしたちに、何を語りかけているのでしょうか?」

  わたしはあなたたちを自由にしたのです。あなたたちは、もう苦しむ必要はない。わたしが、あなたを守り続けます。



「神からの十の語りかけ」は、「これを守らないとダメだ!」と私たちを脅すような、「ビートする、叩きのめすような」命令ではありません。

むしろ、神さまは、語りかけを通して、わたしはこういう者です。私とあなたの関係はこういうモノです。とわたしたちにその確かな存在を証明してくれているのです。

イスラエルの人々は、400年の奴隷生活、40年の荒野での旅を通して、大きな苦しみと絶望を味わいました。しかし、それで終わりではなかった。神は彼らに直接語りかけてくれたのです。


                              


釜石の皆さんの被災の経験とは比べ物にもならないとは思いますが、私自身も震災とそのボランティア活動を経験しました。

3年前、仙台で被災し、震災直後から東北教区での被災者支援センターの立ち上げに関わり、その後、アメリカに留学しました。当時は今より10キロ痩せていて、さらにボランティアの仕事のために一時は40キロ近くまで体重が減り、ヨレヨレの風貌でアメリカに降り立ちました。

私が住んだアメリカ中西部は、日本人はほとんどいません。アメリカ人の知り合いも一人もいませんでした。もちろん、誰ひとり東日本大震災を経験した人はおらず、思いを分かち合うことも、英語がほとんどできなかったので自分の思いを話すこともままなりませんでした。

日本ではまだみんな苦しみながら働いているのに。一人だけ留学してしまったという大きな罪悪感に押しつぶされそうでした。

飛行機を見かけるたび、
なぜこんな所まで来てしまったのだろう。
神さまはなぜ、私をこんなに遠くまで連れてこられたのか。。。


                              


しかし、今、私は東日本大震災は絶望では終わらないと、信じています。
正確にいうと、信じられるようになりました。


3年間の神学の学びと実習を通して、アメリカの教会の人たちとの出会いを通して、今までとはちがう新たな自分、日本とアメリカ両方のアイデンティティを意識するようになりました。

そして、神さまがくださる希望を信じ生きる強さを与えられ、(体重も10kgほど増えて)日本に帰って来ました。


神さまは、どんな人にも必ず、その人のうちに宿る強さを信じさせてくださり、束縛から自由にしてくださいます。


御嶽山の噴火の悲しみも、
神戸の女児殺害事件の不合理も、
北海道の女子高校生による祖母と母の殺害のショックも、

西アフリカ諸国でのエボラ出血熱の混乱も、
中東での終わりの見えない紛争による苦痛も、
アメリカにおける根強い黒人差別のひどさも、

そして、
東日本大震災も、震災後の東北も、

決して絶望では終わらない、と信じることができる強さです。


                              


「私はあなたたちを、あらゆる束縛から自由にする。」
「この、私が、あなたの神である。」

今までの呼び方でいえば「十戒」、私が提案した呼び方でいえば「神さまからの十の言葉」です。この十の言葉に込められた神さまの思いは、ただの命令ではないのです。

そんな神さまが信じられない時もあるかもしれません。
信じられない時もあって当然です。それは、「十の戒め」を完全に守ることが誰にとっても不可能なのと同じです。

だけど、それでも、信じられる、信じられない、信じたい、を繰り返して、私たちは必ず希望にたどり着きます。

私たちは「十戒」をBible-beatingの観点からうけとるのではなく、
「神さまからの十の言葉・語りかけ」「人間の力、想像をこえた神の賢さという贈り物」として喜んで受けとりませんか。



「私はあなたたちを、奴隷のような絶望の状態、苦しみ、痛み、悲しみに縛られた状態から救い出して自由にする。」

この神さまが地上に来てくださったイエス・キリストに従う私たちです。
そして、私たちは、そのイエス・キリストは、今も私たちと共におられると信じる共同体です。


希望がないわけがないのです。

(もう一度言います。)希望がないわけがないのです。



「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。
 人の子らを苦しめ悩ますことがあってもそれが御心なのではない。」(哀歌2:31, 33)


私は、あなたたちを、痛み、苦しみ、あなたたちを縛り付けるすべての事柄から導きだして自由にする神である。



イスラエルの人々が神さまから受けとった「十の言葉」を受けとった時からずっと、神は語り続けています。

今日、私たちは、礼拝を通してその声を聞いたのです。


                              

プロの「謝礼をいただいて語る者」として、十数時間かけて文章を作っています。どうか、無断転載、コピーはしないでくださいませ。内容に関する感想、質問などは、お気軽にどうぞ。



参考文献・資料

  1. 日本聖書協会『聖書 新共同訳旧約聖書続編付き』
  2. Harold W. Attridge, The HarperCollins Study Bible NRSV, (HarperCollins Publishers, 2006)
  3. Joel B. Green, The CEB Study Bible, (Common English Bible, 2013)
  4. Adele Berlin and Marc Avi Brettler, Editors, Michael Fishbane, Consulting Editor, The Jewish Study Bible Jewish Publication Society TANAKH Translation, (Oxford University Press, 2004)
  5. Terence E. Fretheim, The Pentateuch, (Abingdon Press, 1996)
  6. Mark Allan Powell, The HarperCollins Bible Dictionary, (HarperCollins Publishers, 2009)
  7. Walter Brueggemann, Introduction to the Old Testament The Canon and Christian Imagination, (Westminster John Knox Press, 2003)
  8. Kathryn Matthews Huey, United Church of Christ Sermon Seeds Focus Scripture: Exodus 20:1-4, 7-10, 12-20, God’s Loving Wisdom/ Words of Life (http://www.ucc.org/worship/samuel/august-17-2014.html, Accessed by October 1, 2014)
  9. Patrick D. Miller, Preaching the First Commandment in a Pluralistic World, (Journal for preachers, Pentecost 2004)
  10. Amy Merrill Willis, Between Moralism and Moral Vision: Rediscovering the Decalogue—Exodus 20:12-16, (http://www.politicaltheology.com/blog/between-moralism-and-moral-vision-rediscovering-the-decalogue-exodus-2012-16/, Accessed by October 1)

行きの電車から。朝もや。

駅で。

駅で。

駅で。このニャンコたちはいったい。。。

久しぶりに駅でおそば!(立ち食いそば好きなんです。)

津波が来た高さが書いてあります。

教会の駐車場のあたりにあったバラ。

新生釜石教会。

虹とお魚のステンドグラス、とても素敵でした。

釜石駅。きっとまた来ます。



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